【徹編】第三一話 この場所で、ちゃんと息ができる

テーブルの上には企画書。
夏祭り企画――地元の女性経営者と語る、夏祭りとこれからの街。

それを見たとき、もっと重い気持ちになるかと思った。


夕べは、思ったよりも眠れた。
取材や企画に関わると、だいたい本番の前の日は眠れなくて、食べても味もしなくて。
ここにいるのかいないのか、分からないような感じだったのに。

緊張はしている。
でも、緩やかだ。
手も震えていないし、吐き気もしない。
深く吸い込んだ空気が、肺の奥まで届いていく。

前は、緊張していた時なんて深呼吸できなかった。
息を止めて、少しだけ吸って、
何も感じないように。
何も感じないように。
自分の感覚を、消して、消して、消して。
無表情になった辺りで、ようやく取材に臨んでいた。


「楽だなぁ」

わざと声に出した。
自分で確認したかったのかもしれない。
その声が、ここにいることを感じさせてくれる。

なんか、変な感じ。
うまく言えないけど、変な感じだった。


語る会は夕方の6時から。
それなりの緊張で、ほぼ一日を過ごした。
いよいよ本番前の準備の時間。

会場のテントでは、後輩くんと元の同僚たちが準備をしている。
そこへ顔を出した。

「おはようございます」

軽くあいさつする。
大丈夫、声も出る。

「調子どうですか?」

後輩くんが声をかけてきた。

「まぁまぁかな」

今までなら、話しかけないでくれ……って思ってただろうな、なんて考えていた。

手渡された缶コーヒーを一口飲む。
取材前にコーヒーなんて、飲んだことなかったかも。

ここの空気を感じていても、大丈夫みたいだ。
人の中にいても、プレッシャーでおかしくならない。
いつもの自分でいられる。

前なら、トイレ3回は行ってただろう。
今は、逃げ出したい気持ちも、吐き気もない。


緊張は、やっぱりある。
顔を二度、にーっとして作り笑いしてみた。
手をグーパーして、体の感触を確かめる。
手の甲に、フーッと息をかけてみる。

皮膚にも、いつも通りの感覚がしっかりある。


開始時間が近づくと、ぽつぽつと参加者たちが集まってきた。
知ってる顔も、ちらほらある。

僕もこの街の人なんだなぁ、と思った。

――え?
あの肉屋って、経営者は旦那さんじゃなかったの?

この街も長いけど、知らないこともあるらしい。


一通り集合したかな。

その中には、麻衣さんもいた。
軽く、目で挨拶する。

うん? みたいな顔をしてた。
迷惑だったかな?

でも、麻衣さんも応えてくれた。
少し眉が上がっていて、
その後に、口元が緩んだ気がした。

見間違いかもしれないけど。


皆さんの話を聞く。
昔の夏祭りのこと、街の人が作り上げてきた思い出。
「街の人のための祭りだから、花火は上げない」という話。

そっか。
地元の人が楽しめることが大切で、
人を呼ばなくても成り立つものを、作ってたんだ。

物足りなさが、ちょうどいい感じ。
その視点で、書いてみようかな。
そんなことを思った。


話を聞きながら、ノートを見なくても聞きたいことが口から出ていた。
自然と、笑いが起きる。
皆さんと、笑いあえた気がする。

……気がするだけかもしれない。

僕が、皆さんを見ることができているんだ。
皆さんは、きっと前から、笑っている人たちだったのだろう。


「あなた、あの方の息子さんよね?」

昔からある不動産屋のオーナーが、話を振ってきた。
父の顔が浮かぶ。
少しだけ、ざわっとした。
でも、その感覚はすぐに消えた。

「あの……父が何か、失礼なことを?」

「いいえ、失礼はなかったわよ。泣かされたけど」

オーナーは、笑っていた。

僕は立ち上がって、頭を下げた。
辺りが、静かになった。

「まぁまぁ、あなたはそんなことしなくていいんですよ」

誰だったかな?
この声は、多分、母がお茶会のときにお菓子を届けてくれていた人。

ああ……
忘れていたこと、いろいろ思い出してくる。

本当は全部、覚えていたのかも。
でも、忘れたかったんだ。


無事に、語る会は終わった。
みなさんと挨拶しあったり、握手したり。

人の手が温かいと思ったのは、いつぶりだろう。


テントを出ると、ざわざわとした人の流れができていた。

「あーー」

背伸びをした。
体を伸ばすと、じんとした感覚がほどけていく。

……まぁ、緊張はするよな。
でも、その感覚がいやじゃなかった。


背後から、声がした。

「お疲れ様でした」

麻衣さんがいた。
少し、目が合わせにくい。

「ありがとうございました!」

顔を上げると、麻衣さんの向こうに後輩くんが見えた。

目が合った。
後輩くんは、あごを小さく上げた。二回。

ゆっくり、息を吸い込んだ。

「少し、眺めてみませんか。この祭り」

麻衣さんが、笑った。

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