【徹編】第三十話 いつもに、風が混じっていた

昼前。
部屋の空気は、ぬるかった。

やる気のない扇風機が、カタカタと音を立てて回っている。
風も、光も、閉じ込めたままの部屋。
キーボードには、なぜか触れなかった。
何も打たずに、時間だけが過ぎていく。

昨日は、あれだけ書けたのに。
アイスを食べてみたり、似たようなことをしても、なんか違う感じだった。

 

窓を開ければいいだけの話だった。
けれど、どうしても手が伸びなかった。

なんとなく──
そう、なんとなく。
理由なんて、あとからついてくる。

 

そのとき、重たい音と一緒にドアが開いた。

「せんぱーい、おはようございます!」

「くさっ。先輩、この部屋、臭いです」

いきなりそれかよ。

「知ってる」

あきれたように笑って、後輩くんはドアを開けたまま窓に向かった。

ガタ、ガタ、またガタ。
なかなか開かない。

最後に、「せーのっ」と力をこめて——
スパーン!

風が、一気に流れ込んだ。

ブラインドがバタバタと暴れて、シャラシャラと風が走っていく。
紙がバサバサと舞って、机の上からひらひらと落ちていく。

「おお……」

思わず声が出た。
暑いはずなのに、なんだか、気持ちいい。

袖口から流れ込む空気が、体温を確かに奪っていく。

 

「心の窓が開いたってやつですかね」

後輩くん、それはベタすぎ。

「漫画かよ」

二人でやれやれ、みたいな顔をして、少し笑った。

そのあと、黙ったまま風にあたっていた。
熱いアスファルトの匂いが混ざった風。

でも──
気がつけば、肩の力が抜けていた。

 

「そういえば昨日、電話した」

「電話?」

「早川さんに」

「へー!」

「企画の挨拶。仕事のうちだ」

「仕事のうちですよねぇ」

にやにやしながら、後輩くんはタワシを手に取った。
なぜかそのまま、窓のレールをこすり始める。

ゴシゴシ、ゴシゴシ。

袖をまくった腕に、汗がたまる。
洗剤が跳ねて、「いてっ」と声が上がる。

 

「せんぱーい」

「なんだー」

「なんで僕、掃除してるんですかね?」

「なんでだろなー」

いつもどおりの会話。
でも、その「いつも」に、風が混じっていた。

 

空のペットボトルに水を入れる。
ぬるい水が、手の中に広がる。

全然気持ちよくない。

でも、しばらくしたら──
少しだけ、冷たい水になった。

 

「流すぞー」

さっと避ける後輩くんの動きが軽い。
その動きのキレが、引っかかった。

足だけ、ささっと動かした。
僕には、そのキレがなかった。

ペットボトルの水が、重く感じられた。

 

息を止めて、レールに水を流し込む。
小さな土の粒が、ゆらゆらと水に乗って、レールを伝って落ちていく。

後輩くんからタワシを受け取って、レールの端をこする。
汚れた水が、少し跳ねた。

そんなことは気にしない。
力を込めて。
でも、丁寧に。

全部を流すのに、水道を三往復した。

 

冷蔵庫を開ける。
缶コーヒーの買い置きはなかった。

「ちょっと缶コーヒー買ってくるわ」

「じゃあ、一緒に行きましょうよ」

二人で、暑い中を歩く。
コンビニの手前に、駄菓子屋に氷の暖簾がかかっていた。

「ここ、まだやってたのか」

「氷でも食ってくか」

「いいですね、氷!」

 

駄菓子屋のおばちゃん──
いや、もうおばあちゃんと呼んだほうがしっくりくる。

四角い氷をセットして、ボタンを押す。
モーターがうなりだしたあと、シャーッという音。

削られた氷が、白いカップにどんどん入っていく。
それを二度、三度と手で整えて、潰して、また重ねていく。

──ああ、なんかいい。
その場面だけがセピア色に見えた気がした。

 

僕はレモン。
後輩くんはブルーハワイ。

見てるだけで冷たくなる。
キラキラした小さな氷の破片が混ざっている。

崩さないように、スプーンを差し込む。
口へ運ぶ。

想像よりも冷たい温度が、口の中に広がる。

──あー、うまい。

思わず、声が出た。

後輩くんは一気に食べすぎて、頭を押さえている。
キーンとくるやつだ。

それを見て、少し笑ってしまった。

 

なんにでも勢いがあって、キレがある。
いいね、後輩くん。

僕は僕なりに、ゆっくり食べよう。
そんな食べ方も、ありだよ。

 

風が吹いた。
熱い風だった。

──この風を、覚えておこうと思った。

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