【徹編】第二九 話手が、震えなかった

《特別なことは何もなかった。
でも、たぶん今日は少しだけ、違っていた。
自分でも理由はわからないけど。》


朝、起きて顔を洗う。

水の温度が、昨日よりもはっきり分かる!
なんて言えたらよかった。

でも、よくわからなかった。
僕は──何を期待していたんだろう。

鏡の中の自分が、少しだけ違って見えた気がした。
鏡を覗き込む。
目が合う。

前は見たくなかったけど、
今日は久しぶりに自分をちゃんと見れた。

おっさんになったね。
しょうがない。
これは当たり前のことなんだ。

子供の頃って、鏡を見たことあったかな。
ないかもしれない。
つい最近まで、なかったかもしれない。

見ていたんだろう。
でも目をそらすように、見ていた気がする。

よう!

意味もなく右手を上げて、鏡の中の自分に挨拶してみた。
鏡の中の僕も、手を上げていた。
それが少しおかしかった。

食卓に座って、カレンダーを見る。
赤い丸印のついた日付が、そこにあった。

ああ、そうだ。
あれから──企画書、放りっぱなしだったな。

後輩くんが全部手配済みのFAXをくれた。

なんでFAXなのかは、分からない。

このあいだ、うちに来たときにガチャガチャいじってたから、
遊びたくなったのかもしれない。

でも、あの後輩くんのことだ。
……なんか、意味はあるんだろうな。

僕には、わからないままで終わることが多い。
でも、それでいいと思ってる。
なんか、ちょっと可笑しいし。

おかげで僕は、事前に「よろしくお願いします」と電話したらいいだけ。

机の前に座る。
画面はついたまま。
キーボードを横目に、アイスを食べる。

スプーンを口に運びながら、思い出した。

夏のある日、部活をサボった。

理由は忘れた。
ただ、行きたくなかった。

エアコンの効いた部屋で、ひとりアイスを食べていた。

気持ちよかった。
風が気持ちよかっただけ。
それ以外は──
……空っぽだった。

なにも考えてなかった。
なにも、なかった。

自分だけ逃げてる。
自分から逃げてる。

何もしてないくせに、世界からズレてる感じ。

どうにもならなくて──

気づいたら、走っていた。

スニーカーを履いて、外に出た。
アスファルトが熱かった。

車の反射する太陽がまぶしくて、
それでも目を閉じれなかった。

手と足のリズムがズレる。

息を止めて、
心の中で叫ぶ。

あーーーー。

開けた口の奥に、熱い空気だけが流れ込んで、
声は、どこにも行けなかった。

握った拳の指の間に、汗がにじんでいた。
そのぬるさだけが、やけに残った。

──なんで部活のことなんて思い出したんだろう。
夏だから、かな。

最後の一口はもう、溶けかかっていた。

……カタカタ。

キーボードに指が当たる。

中指の爪が少し伸びたのか、
カチッとした音が、前よりも強く響く。

カタカタとした音の向こうに、
あのときの叫び声が、まだ残っている気がした。

画面の中、文字がゆっくりと増えていく。
何を書いているのか、自分でもよく分からない。

でも、止まっていない。

今、僕は自分から逃げているのかな。
まあ、考えてもしょうがない。わからないから。

ただ、書けないと思ってるのに、
なんとなく書けてるのが変な感じだ。

そろそろ、連絡を取らなきゃいけない。
もうすぐ夏祭りだ。

ポケットにあったスマホを取り出して、しばらく見つめた。

メールか、電話か。

番号をタップした。

コール音が続く。

その音が、心臓の音と重なって聞こえる。

でも、意外と心臓も静か。

──「あ、早川です」

その声が聞こえた瞬間、胸の奥が、ふっと緩んだ気がした。

気づいたら、もう話していた。

いつもなら、もっと躊躇していた気がする。

でも今日は、なんとなく指がそのまま動いた。

話してるあいだ、自分でも不思議なくらい静かだった。
声も、震えない。

通話を終えて、スマホを机に置いた。

いつものように、キーボードに向かう。
指が自然に動き出す。

カタカタ、カタ……

ふと、思った。
あれ?

そういえば──
電話してる間、手、震えなかったな。

リハーサルもしなかった。

普段なら、何度も頭の中で繰り返してた。

相手がこう言ったら、自分はこう言う。

そうやって、何かを間違えないようにしてた。

……でも今日は、それをしなかった。

また、キーボードに向かう。
カタカタ……カタカタ。
増えていく文字。

目が乾く。

よし。

なんで今、こんな言葉が出たんだろう。
別に、なにかができたわけでもないのに。

もう一度、言ってみた。
よし。

ただ、もう一度、聞いてみたかった。

時計を見たら、2時間たっていた。

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