【徹編】第二八話 ゴム手袋が外れた日

《「それ、トラウマかもよ」

田所がそう言ったとき、俺はちょっと笑ってしまった。

ただの水が甘く感じられた朝のこと。
なにかが剥がれて、なにかが戻ってきたような──

そんな、ちいさな感覚の記録です。》


──あれは、なんだったんだろう。

わからない。
今も、ちゃんとは思い出せない。

ただ、もう“あれ”は、そこにはなかった。
ざわざわも、寒さも、父の声も。

残っているのは、朝日だった。

まぶしい。
カーテンの隙間から差し込む光が、妙に強く感じられた。
少しだけ目を細めて、それでもその光を見ていた。
何かを照らしているわけじゃない。ただ、そこに在る光。

それだけで、部屋の空気が違って見えた。

立ち上がって、台所へ行く。
コップを手に取って、じゃーっと勢いよく水を汲む。

冷たくもなく、ぬるくもない。

コップから少し溢れた水が、手を伝って流れた。
──それが、気持ちよかった。

今まで、こんな感触あっただろうか。
まるで、自分の手から薄いゴム手袋を外したみたいだった。

初めて、水に触れたような感覚。
初めて、とは違うか。

すごく久しぶりに、水を触ったような──
なんか、泥遊びをしていたときのことを思い出した。

ざらざらとした土の細かな粒。
ペタペタと地面を叩く音。

そして、それを洗い流した、
キラキラとした冷たい水の感触。

皮膚が、ちゃんと水を覚えている。

水って、こんなふうに包むんだな──と、
ほんの少し、呼吸が深くなった。

理由はわからない。
でも、それでよかった。

──水を飲む。

その瞬間、わかった。
……甘い。

なんだ、これ。
水って、こんな味がしたっけ?

冷たさじゃない。
ほんのわずかな甘みが、喉を通って、胃のあたりに落ちていく。
どこをどう通ったか、全部わかる。

そんなこと、今まで一度も感じたことがなかった。
感じていたのかもしれない。
ただそれが、今までは分からなかった。

少し、怖くなった。

もしかして──と思って、
ためしに、体を伸ばしてみた。

肩が、背中が、ギシッと鳴った。
……やっぱり、痛い。

そういうところは、変わらないんだな。

でも、だからこそ分かる。
“今、感じてる”ってことだけは、確かだった。

怖くなって昔の友人に連絡をとる。

臨床心理学ゼミ出身、田所に言われた。

「それ、トラウマかもよ」

田所がそう言ったとき、
俺はちょっと笑ってしまった。
──そんな大げさな話じゃない、と思った。

でも、心当たりがないわけでもなかった。

「体がゾワゾワして、なんか変な感じだったでしょ?」

「あー……」

思い出すと、なんとなく身体がこわばった。

「いや、ほんとに珍しいことじゃないよ。ちょっとしたことで起きるし、本人が覚えてないことも多いし。凍りつき反応がとけるとそうなる」
「学生の時からお前、突然動かなくなることあったの、あれ凍り付き反応っていってトラウマで固まってたんだよ」

軽い口調だった。
ありがたかった。
これが誰かに“ちゃんと向き合わないとダメだ”みたいに言われてたら、多分もう話すのをやめてた。

「で、そのあと水がうまかったって言ってたじゃん? それ、凍ってたのが溶けた証拠だと思うよ」

水が、うまかった。
ただの水なのに、喉を通っていくのが分かって、甘みすら感じた。

あれは──そうか。
そういうこと、だったのか。

なんか、変なことが起きたな、で終わらせてもよかった。
でも、誰かに聞いてみてよかった。
ちょっとだけ、自分のことがわかった気がした。

田所との通話を終えて、少しだけ時間を置いて、
ふと思った。

──あれ、本当に俺の身体で起きたことなんだろうか。

なんだか夢みたいで、変な感触だけが残ってる。
けど、確かに“水がうまかった”のは本当だった。

試してみたくなった。

歩いて10分くらいのところに、昔からあるラーメン屋がある。
最近はあんまり行ってなかったけど、
ふと思い出して、ふらりと入った。

カウンターに座って、味噌ラーメンを頼む。

出てきたそれを見て、まず思った。
──赤い。

ネギ、油、器の縁。
前よりも、色がちゃんと見える気がした。

レンゲでスープをひと口。

……うまい、のか?

いや、たぶん普通だ。
味がどうこうというより、
なんとなく、「前と違う気がする」ってだけ。

大げさな話じゃない。
味覚が研ぎ澄まされたとか、そういうのでもない。

でも、確かに何かが変わった。

ただそれは──
急に遠くが見えるようになったり、
手首から糸が出たり、
……そういう話ではなかった。

もっと、なんでもない感じ。
でも、確かに「違う」気配があった。

じゃあ、何が変わったんだろう。
わからない。
でも、変わってしまった気配だけはある。

スープの湯気が、まっすぐ上がっていた。

特別なことが起きたわけじゃない。
ただ、それでも、
この日常が少し違って見えたのは、事実だった。

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