
《「それ、トラウマかもよ」
田所がそう言ったとき、俺はちょっと笑ってしまった。
ただの水が甘く感じられた朝のこと。
なにかが剥がれて、なにかが戻ってきたような──
そんな、ちいさな感覚の記録です。》
──あれは、なんだったんだろう。
わからない。
今も、ちゃんとは思い出せない。
ただ、もう“あれ”は、そこにはなかった。
ざわざわも、寒さも、父の声も。
残っているのは、朝日だった。
まぶしい。
カーテンの隙間から差し込む光が、妙に強く感じられた。
少しだけ目を細めて、それでもその光を見ていた。
何かを照らしているわけじゃない。ただ、そこに在る光。
それだけで、部屋の空気が違って見えた。
立ち上がって、台所へ行く。
コップを手に取って、じゃーっと勢いよく水を汲む。
冷たくもなく、ぬるくもない。
コップから少し溢れた水が、手を伝って流れた。
──それが、気持ちよかった。
今まで、こんな感触あっただろうか。
まるで、自分の手から薄いゴム手袋を外したみたいだった。
初めて、水に触れたような感覚。
初めて、とは違うか。
すごく久しぶりに、水を触ったような──
なんか、泥遊びをしていたときのことを思い出した。
ざらざらとした土の細かな粒。
ペタペタと地面を叩く音。
そして、それを洗い流した、
キラキラとした冷たい水の感触。
皮膚が、ちゃんと水を覚えている。
水って、こんなふうに包むんだな──と、
ほんの少し、呼吸が深くなった。
理由はわからない。
でも、それでよかった。
──水を飲む。
その瞬間、わかった。
……甘い。
なんだ、これ。
水って、こんな味がしたっけ?
冷たさじゃない。
ほんのわずかな甘みが、喉を通って、胃のあたりに落ちていく。
どこをどう通ったか、全部わかる。
そんなこと、今まで一度も感じたことがなかった。
感じていたのかもしれない。
ただそれが、今までは分からなかった。
少し、怖くなった。
もしかして──と思って、
ためしに、体を伸ばしてみた。
肩が、背中が、ギシッと鳴った。
……やっぱり、痛い。
そういうところは、変わらないんだな。
でも、だからこそ分かる。
“今、感じてる”ってことだけは、確かだった。
怖くなって昔の友人に連絡をとる。
臨床心理学ゼミ出身、田所に言われた。
「それ、トラウマかもよ」
田所がそう言ったとき、
俺はちょっと笑ってしまった。
──そんな大げさな話じゃない、と思った。
でも、心当たりがないわけでもなかった。
「体がゾワゾワして、なんか変な感じだったでしょ?」
「あー……」
思い出すと、なんとなく身体がこわばった。
「いや、ほんとに珍しいことじゃないよ。ちょっとしたことで起きるし、本人が覚えてないことも多いし。凍りつき反応がとけるとそうなる」
「学生の時からお前、突然動かなくなることあったの、あれ凍り付き反応っていってトラウマで固まってたんだよ」
軽い口調だった。
ありがたかった。
これが誰かに“ちゃんと向き合わないとダメだ”みたいに言われてたら、多分もう話すのをやめてた。
「で、そのあと水がうまかったって言ってたじゃん? それ、凍ってたのが溶けた証拠だと思うよ」
水が、うまかった。
ただの水なのに、喉を通っていくのが分かって、甘みすら感じた。
あれは──そうか。
そういうこと、だったのか。
なんか、変なことが起きたな、で終わらせてもよかった。
でも、誰かに聞いてみてよかった。
ちょっとだけ、自分のことがわかった気がした。
田所との通話を終えて、少しだけ時間を置いて、
ふと思った。
──あれ、本当に俺の身体で起きたことなんだろうか。
なんだか夢みたいで、変な感触だけが残ってる。
けど、確かに“水がうまかった”のは本当だった。
試してみたくなった。
歩いて10分くらいのところに、昔からあるラーメン屋がある。
最近はあんまり行ってなかったけど、
ふと思い出して、ふらりと入った。
カウンターに座って、味噌ラーメンを頼む。
出てきたそれを見て、まず思った。
──赤い。
ネギ、油、器の縁。
前よりも、色がちゃんと見える気がした。
レンゲでスープをひと口。
……うまい、のか?
いや、たぶん普通だ。
味がどうこうというより、
なんとなく、「前と違う気がする」ってだけ。
大げさな話じゃない。
味覚が研ぎ澄まされたとか、そういうのでもない。
でも、確かに何かが変わった。
ただそれは──
急に遠くが見えるようになったり、
手首から糸が出たり、
……そういう話ではなかった。
もっと、なんでもない感じ。
でも、確かに「違う」気配があった。
じゃあ、何が変わったんだろう。
わからない。
でも、変わってしまった気配だけはある。
スープの湯気が、まっすぐ上がっていた。
特別なことが起きたわけじゃない。
ただ、それでも、
この日常が少し違って見えたのは、事実だった。

コメント