
《誰の声だったのか、ずっとわからなかった。
でも、今日は──少しだけ、色が見える。夏の朝、ふと崩れた湯切りのあとに訪れた、
身体の奥に触れるような静かな時間の記録です。》
日曜の朝。
もっとも、最近は曜日の感覚がどこかへ行ってしまった。
カレンダーを見ても、数字が意味を持たない。
子どもたちの声もしない。
公園が静かすぎる気がして、窓を閉めた。
なにも考えていないのか、
なにかを考えていたのか。
それすら曖昧なまま、ぼんやりと台所に立っていた。
ピーッと、やかんが鳴る。
細い音。現実に引き戻される。
「ちゃんと食べてるの?」
母の声が、ふっと浮かんだ。
実際には誰もいないのに、そう言われた気がして、
ちょっとだけ腹が立つ。
けれど、懐かしさもあって──それが嫌だった。
カップ焼きそばにお湯を注いだ。
時計は見ない。もう、だいたい分かる。
頃合いだと思って、湯を捨てた。
──ドサッ。
……あの笑い話みたいなやつだ。
湯切りで、麺ごと捨ててしまうやつ。
慎重になると余計に力が入って、
体の動きがおかしくなった。
「これ以上、悪いことは無い!」
なぜか、口から声が出ていた。
と、その瞬間だった。
どこか奥のほうで、ノイズのように響いた。
どうせお前なんか、何をやってもダメなんだよ。
……あの声。
息を止めるみたいに、台所で固まる。
思い出そうとしたわけじゃないのに。
身体だけが、あのときを覚えている。
……あの声。
言葉じゃなく、感覚で分かる。
音の高さも、間の取り方も、重心の低さも。
それが、自分の声に似ていた。
仕事で誰かに注意するとき。
書いたものを読み返して、舌打ちしたとき。
──何かを始める前に、「どうせ」と呟いたとき。
ずっと、僕が僕にダメ出ししてると思ってた。
けど、それ、俺じゃなかったんだな。
あれは、父親だった。
いつのまにか、自分の中に住んでいた。
気づいた瞬間、変な感覚が体を包んでいった。
寒いような、でも寒くない。
寒くないんじゃなくて、感じない。
冷たすぎて感じないみたいな。
それともちょっと違うか。
よくわからない。
とにかく──これは味わったことがなかった。
体に膜が張っていて、外の気温はわからない。
……湯切りの失敗くらいで、ここまで揺れるか。
そんな声もした。
けれど、それもきっと、あの声の一部だった。
黙れよ。
小さく、そう言った。
声になったかどうかも分からない。
でも、それは確かに、僕の声だった。
それで何かが終わるわけじゃなかった。
……寒い、のか。
でも、それはただの冷えじゃなかった。
背中から肩へ、なにかが這いずるような感触。
冷たいものが、皮膚のすぐ下を、ざわざわと走っていく。
一度きりじゃない。
少し収まったかと思うと、今度は腰から太ももへ──
じりじりと、感触が移っていく。
無言のまま、体の中を巡っていく。
場所を選ばず、ゆっくりと内側を動いていく。
寒さというより、“追い出されている”感じだった。
何かが、自分の中から出ていくような。
でも、まだ完全には出ていかない。
居場所を探して、身体の奥をぐるぐる回っている。
ずっと自分を観察してる。
呼吸はできてる。
深呼吸もやれる。
ただ、なんか違う。
また、妙な気配が動いた。
今度は首筋から背中へ戻っていく。
気配のリズムで、居たりいなかったり。
震えがくるとか、涙が出るとか、息ができないとか。
そういうドラマみたいなことではなさそうだ。
ただ、全身を静かに走っていく何かがある。
何かが流れていくのを、じっと感じていた。
感じていなければ、だめなような気がした。
時間が止まっているようで、
でも、内側の動きだけが続いていた。
そのまま、何も考えずに、横になった。
逃げるわけでもない。
なんだろう。
毛布にくるまって、ただその感覚をずっと感じていた。
夏なのに暑さは感じない。
毛布の重さだけが、なぜか安心できた。
そのまま眠ってしまったらしい。
目が覚めたとき、空気が変わっていた。
あの感触は、まだわずかに残っていた。
けれど、あれほど強烈だったうねりは、どこかへ行っていて、
代わりに──波が引いたあとの、さざ波みたいなものが残っていた。
静かな脈のようなもの。
少し自分の感覚が戻っているというか、
自分の外側にあった膜が無いみたいな。
それでも、なんだったんだろう、と思う。
うまく言葉にはできない。
ただ、あれが「昔のなにか」。
多分、父と関係があることは、なんとなく分かった。
起き上がって、カーテンの隙間から光を見た。
──赤い。
その赤が、ちゃんと赤に見えた。
いつものカーテンの模様。
いつもの光。
なのに、今日はなんかわかる。
赤いものは赤。
黄色いものは黄色。
それだけのことなのに。
鮮やかというほど衝撃的なものでもない。
ただ赤い。
自分でもよくわからない。
今まで見ていなかったのかもしれない。
でも、見ていたはず。
なんか色が気になる。
世界が急に変わったわけじゃない。
自分の目が、少しだけ戻ってきた。
そんな気がした。
まだ、あの感触は残っている。
でも、もう、自分の中にはそれが少ししか残ってないのかな。
そんな気がした。
なんとなく思った。
何で聞こえたのかわからない。
でも──あれは父親の声で、僕の声じゃなかった。
よくわからない。
だから、そのままにしておいた。
目を閉じた。
肩。
肘。
指の先。
お腹。
膝。
足の先。
──何かが変わってることは、なさそう。
重さが減っているような。
何の重さかは、わからない。
うーん……僕なりに考えてみたけれど、たぶん、これが限界だ。
ちゃんとした名前なんて、つけられない。
でも、それでも、なんかよくわからないけど、
味わうべき感覚だったのかもしれない。
それも、よくわからない。
……たぶん、これ以上は無理なんだろうな。
一人で抱えるには、ちょっとだけ重すぎる。
誰かに聞いてみるか。

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