【徹編】第二七話 赤が赤に見える朝

《誰の声だったのか、ずっとわからなかった。
でも、今日は──少しだけ、色が見える。夏の朝、ふと崩れた湯切りのあとに訪れた、
身体の奥に触れるような静かな時間の記録です。》


日曜の朝。
もっとも、最近は曜日の感覚がどこかへ行ってしまった。
カレンダーを見ても、数字が意味を持たない。

子どもたちの声もしない。
公園が静かすぎる気がして、窓を閉めた。

なにも考えていないのか、
なにかを考えていたのか。

それすら曖昧なまま、ぼんやりと台所に立っていた。

ピーッと、やかんが鳴る。
細い音。現実に引き戻される。

「ちゃんと食べてるの?」

母の声が、ふっと浮かんだ。

実際には誰もいないのに、そう言われた気がして、
ちょっとだけ腹が立つ。

けれど、懐かしさもあって──それが嫌だった。

カップ焼きそばにお湯を注いだ。
時計は見ない。もう、だいたい分かる。

頃合いだと思って、湯を捨てた。

──ドサッ。

……あの笑い話みたいなやつだ。
湯切りで、麺ごと捨ててしまうやつ。

慎重になると余計に力が入って、
体の動きがおかしくなった。

「これ以上、悪いことは無い!」

なぜか、口から声が出ていた。

と、その瞬間だった。
どこか奥のほうで、ノイズのように響いた。


どうせお前なんか、何をやってもダメなんだよ。


……あの声。

息を止めるみたいに、台所で固まる。

思い出そうとしたわけじゃないのに。
身体だけが、あのときを覚えている。

……あの声。
言葉じゃなく、感覚で分かる。
音の高さも、間の取り方も、重心の低さも。

それが、自分の声に似ていた。

仕事で誰かに注意するとき。
書いたものを読み返して、舌打ちしたとき。
──何かを始める前に、「どうせ」と呟いたとき。

ずっと、僕が僕にダメ出ししてると思ってた。
けど、それ、俺じゃなかったんだな。

あれは、父親だった。
いつのまにか、自分の中に住んでいた。


気づいた瞬間、変な感覚が体を包んでいった。

寒いような、でも寒くない。
寒くないんじゃなくて、感じない。

冷たすぎて感じないみたいな。
それともちょっと違うか。
よくわからない。

とにかく──これは味わったことがなかった。

体に膜が張っていて、外の気温はわからない。

……湯切りの失敗くらいで、ここまで揺れるか。

そんな声もした。
けれど、それもきっと、あの声の一部だった。

黙れよ。

小さく、そう言った。
声になったかどうかも分からない。

でも、それは確かに、僕の声だった。

それで何かが終わるわけじゃなかった。

……寒い、のか。

でも、それはただの冷えじゃなかった。
背中から肩へ、なにかが這いずるような感触。

冷たいものが、皮膚のすぐ下を、ざわざわと走っていく。

一度きりじゃない。
少し収まったかと思うと、今度は腰から太ももへ──
じりじりと、感触が移っていく。

無言のまま、体の中を巡っていく。
場所を選ばず、ゆっくりと内側を動いていく。

寒さというより、“追い出されている”感じだった。
何かが、自分の中から出ていくような。

でも、まだ完全には出ていかない。

居場所を探して、身体の奥をぐるぐる回っている。

ずっと自分を観察してる。
呼吸はできてる。
深呼吸もやれる。

ただ、なんか違う。

また、妙な気配が動いた。
今度は首筋から背中へ戻っていく。

気配のリズムで、居たりいなかったり。

震えがくるとか、涙が出るとか、息ができないとか。
そういうドラマみたいなことではなさそうだ。

ただ、全身を静かに走っていく何かがある。

何かが流れていくのを、じっと感じていた。
感じていなければ、だめなような気がした。

時間が止まっているようで、
でも、内側の動きだけが続いていた。

そのまま、何も考えずに、横になった。

逃げるわけでもない。
なんだろう。

毛布にくるまって、ただその感覚をずっと感じていた。
夏なのに暑さは感じない。

毛布の重さだけが、なぜか安心できた。
そのまま眠ってしまったらしい。

目が覚めたとき、空気が変わっていた。

あの感触は、まだわずかに残っていた。

けれど、あれほど強烈だったうねりは、どこかへ行っていて、
代わりに──波が引いたあとの、さざ波みたいなものが残っていた。

静かな脈のようなもの。

少し自分の感覚が戻っているというか、
自分の外側にあった膜が無いみたいな。

それでも、なんだったんだろう、と思う。
うまく言葉にはできない。

ただ、あれが「昔のなにか」。
多分、父と関係があることは、なんとなく分かった。

起き上がって、カーテンの隙間から光を見た。

──赤い。

その赤が、ちゃんと赤に見えた。

いつものカーテンの模様。
いつもの光。

なのに、今日はなんかわかる。

赤いものは赤。
黄色いものは黄色。

それだけのことなのに。
鮮やかというほど衝撃的なものでもない。

ただ赤い。
自分でもよくわからない。

今まで見ていなかったのかもしれない。
でも、見ていたはず。
なんか色が気になる。

世界が急に変わったわけじゃない。
自分の目が、少しだけ戻ってきた。

そんな気がした。


まだ、あの感触は残っている。

でも、もう、自分の中にはそれが少ししか残ってないのかな。
そんな気がした。

なんとなく思った。
何で聞こえたのかわからない。
でも──あれは父親の声で、僕の声じゃなかった。

よくわからない。
だから、そのままにしておいた。

目を閉じた。

肩。
肘。
指の先。

お腹。
膝。
足の先。

──何かが変わってることは、なさそう。

重さが減っているような。
何の重さかは、わからない。

うーん……僕なりに考えてみたけれど、たぶん、これが限界だ。

ちゃんとした名前なんて、つけられない。

でも、それでも、なんかよくわからないけど、
味わうべき感覚だったのかもしれない。
それも、よくわからない。

……たぶん、これ以上は無理なんだろうな。
一人で抱えるには、ちょっとだけ重すぎる。

誰かに聞いてみるか。

コメント

タイトルとURLをコピーしました