【徹編】第二六話 頼りない星の下で

《「……やってみるか」
言葉が浮かびかけたとき、思わずつぶやいた。
動けない時間の中で、それでも、少しずつ。》


ただ、画面を見ている。
手はキーボードの手前に置いたまま。
それ以上、動かない。

中葉 薫として、何を書けばいいんだろう。

……そういうことじゃない。
問題は、企画書だ。企画書。

夏祭り企画――(仮)地元の女性経営者と語る、夏祭りとこれからの街って。
なんだよ、その企画。

まあ、今の時代、女性経営者の目線を取り入れるっていうのは分かる。
でも、それにしても。
なぜこれが、僕に……?

パソコンの前で、腕を組んだまま、
気づけば1時間が過ぎていた。
太ももが痺れてきた。
それでも、なぜか動こうとはしなかった。

手ぶらでは行きたくない。

そんなことを、思った。

何か変わった自分で会ってみたい。
変わった自分が何なのか、わからない。
けれど――今のまま顔を合わせるのは、ちょっとつらい。

断ろうかな、と思った。

僕は、断ろうとすると言葉が出なくなる。
肝心なことが言えなくなるんだ。

たぶん、今回もそうなる。
途中までは、断るつもりだった。
……だけど、スマホは持てなかった。

電話してしまったら、
たぶん僕は一生、何かから逃げ続ける気がして。

わかってる。
急に何かができるようになるわけじゃない。
でも、何か、ほしかった。

少しだけ顔を上げて、
あの人を見られる自分になりたかった。

夏祭りまでは、まだ時間がある。
何かできるかもしれない。

大きなことはできない。
それは、わかってる。

そんなことをぐるぐる考えて、
ただ、時間だけが過ぎていく。

それでも――

タイトルバーは「無題」のまま。
一行も、言葉が出てこない。

編集長は言っていた。

「等身大で、思いっきり行ってください」

等身大って、なんだ。
“中葉 薫”という名前で書く文章が、僕の等身大なのか。
逆に、「中葉 薫だからこそ」書けなくなる気がしていた。

軽口を叩いた、あのグータッチ。
ただの勢いだったことを、今さらながら実感する。

一歩も、動けていない。
せっかくもらった名前のくせに。

視線だけを横に向けると、立てかけていたプロット表が目に入った。
衝動的に書いたやつだ。

その一番上に書いていたタイトル。

『頼りない星の下で』
ああ、そうだった。
この物語を、書きたかったんだ。

誰かを導く星なんかじゃない。
きっと頼りない、曇りがちな空に。

それでも、たしかに存在しているような、小さな光。
そんな星の下で、不器用な人間たちが、
時々迷いながらも誰かとすれ違って、
少しだけ救われたり、笑ったりして――

それを、書きたかった。

ふうっと、息をついた。
画面を閉じて、立ち上がる。

冷蔵庫の中身も、空に近い。
ついでに缶コーヒーでも買いに行こう。

玄関を開けたところで、
不意に誰かと目が合った。

「あ、どうも」

後輩くんだった。
なぜか、手にコンビニ袋をぶら下げている。

「営業回りですよ。あ、これ、ついでに」

そう言って、缶コーヒーを一本、僕に差し出す。
無糖。銘柄も、よく分かっている。

「雑誌、けっこうあちこち配ってるらしいですよ。
美容室とか、コインランドリーとか、スーパーとか」
「編集部の指示で」

軽く言い残して、彼はそのまま去っていった。

ドアが閉まっても、
冷たい缶の感触だけが、手に残る。

配ってる――

そうか、もう、いろんな場所で、
“中葉 薫”が名乗られているのか。

誰かが読む。
誰かが、僕を知る。
僕のいない場所で。

一歩も動いてないのに、
世界だけが勝手に動いているような感覚に、
ちょっとだけ足がすくんだ。

それでも――

思い出したのは、あの時のグータッチだった。

あの場では、勢いでやっただけだったのに、
今はなぜか、拳を突き出したくなった。

ひとりで、缶コーヒーを握ったまま。
静かに、拳を宙に向ける。

「……中葉 薫、か。
やってみるか」

誰もいない部屋の中で、
少しだけ、言葉が浮かびかけていた。

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