
《「……やってみるか」
言葉が浮かびかけたとき、思わずつぶやいた。
動けない時間の中で、それでも、少しずつ。》
ただ、画面を見ている。
手はキーボードの手前に置いたまま。
それ以上、動かない。
中葉 薫として、何を書けばいいんだろう。
……そういうことじゃない。
問題は、企画書だ。企画書。
夏祭り企画――(仮)地元の女性経営者と語る、夏祭りとこれからの街って。
なんだよ、その企画。
まあ、今の時代、女性経営者の目線を取り入れるっていうのは分かる。
でも、それにしても。
なぜこれが、僕に……?
パソコンの前で、腕を組んだまま、
気づけば1時間が過ぎていた。
太ももが痺れてきた。
それでも、なぜか動こうとはしなかった。
手ぶらでは行きたくない。
そんなことを、思った。
何か変わった自分で会ってみたい。
変わった自分が何なのか、わからない。
けれど――今のまま顔を合わせるのは、ちょっとつらい。
断ろうかな、と思った。
僕は、断ろうとすると言葉が出なくなる。
肝心なことが言えなくなるんだ。
たぶん、今回もそうなる。
途中までは、断るつもりだった。
……だけど、スマホは持てなかった。
電話してしまったら、
たぶん僕は一生、何かから逃げ続ける気がして。
わかってる。
急に何かができるようになるわけじゃない。
でも、何か、ほしかった。
少しだけ顔を上げて、
あの人を見られる自分になりたかった。
夏祭りまでは、まだ時間がある。
何かできるかもしれない。
大きなことはできない。
それは、わかってる。
そんなことをぐるぐる考えて、
ただ、時間だけが過ぎていく。
それでも――
タイトルバーは「無題」のまま。
一行も、言葉が出てこない。
編集長は言っていた。
「等身大で、思いっきり行ってください」
等身大って、なんだ。
“中葉 薫”という名前で書く文章が、僕の等身大なのか。
逆に、「中葉 薫だからこそ」書けなくなる気がしていた。
軽口を叩いた、あのグータッチ。
ただの勢いだったことを、今さらながら実感する。
一歩も、動けていない。
せっかくもらった名前のくせに。
視線だけを横に向けると、立てかけていたプロット表が目に入った。
衝動的に書いたやつだ。
その一番上に書いていたタイトル。
『頼りない星の下で』
ああ、そうだった。
この物語を、書きたかったんだ。
誰かを導く星なんかじゃない。
きっと頼りない、曇りがちな空に。
それでも、たしかに存在しているような、小さな光。
そんな星の下で、不器用な人間たちが、
時々迷いながらも誰かとすれ違って、
少しだけ救われたり、笑ったりして――
それを、書きたかった。
ふうっと、息をついた。
画面を閉じて、立ち上がる。
冷蔵庫の中身も、空に近い。
ついでに缶コーヒーでも買いに行こう。
玄関を開けたところで、
不意に誰かと目が合った。
「あ、どうも」
後輩くんだった。
なぜか、手にコンビニ袋をぶら下げている。
「営業回りですよ。あ、これ、ついでに」
そう言って、缶コーヒーを一本、僕に差し出す。
無糖。銘柄も、よく分かっている。
「雑誌、けっこうあちこち配ってるらしいですよ。
美容室とか、コインランドリーとか、スーパーとか」
「編集部の指示で」
軽く言い残して、彼はそのまま去っていった。
ドアが閉まっても、
冷たい缶の感触だけが、手に残る。
配ってる――
そうか、もう、いろんな場所で、
“中葉 薫”が名乗られているのか。
誰かが読む。
誰かが、僕を知る。
僕のいない場所で。
一歩も動いてないのに、
世界だけが勝手に動いているような感覚に、
ちょっとだけ足がすくんだ。
それでも――
思い出したのは、あの時のグータッチだった。
あの場では、勢いでやっただけだったのに、
今はなぜか、拳を突き出したくなった。
ひとりで、缶コーヒーを握ったまま。
静かに、拳を宙に向ける。
「……中葉 薫、か。
やってみるか」
誰もいない部屋の中で、
少しだけ、言葉が浮かびかけていた。

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