【徹編】第二五話 やってしまいました

《「おい、どうした」
「実は――」
なんか嫌な予感がする。

朝の静けさを破るノック。
戸を開けると、後輩が“気をつけ”の姿勢で立っていた。
その顔を見た瞬間から、胸の奥がざわついていた。
いつも通りのノリ、だけど――今日は何かが違った。

まさかあんなものを、あんな形で渡されるなんて。》


コンコン!
コンコン!

……誰だよ、こんな朝から。

今日も仕事はない。
ブログをちょっと書かなきゃいけない。
――それも、気が向かない。

何か書きたい気持ちはある。
でもどうしても踏み出せない。
まあ、それが僕だ。
情けないったらありゃしない。

ドアを開けると、なぜか後輩くんが“気をつけ”の姿勢で立っていた。

「おい、どうした」
「実は――」

なんか嫌な予感がする。
何かやらかしたんじゃないだろうな?
そう言いながら、ようやく少し笑った。

「これが、出来上がりました」

彼が差し出したのは、見たことのない雑誌。
白地にシンプルなタイトル、角がまだ硬い。
付箋が、きれいに貼ってある。

よくわからないけれど、後輩くんは表彰状を渡すみたいな感じで、それを僕に手渡してきた。
両手で、丁寧に。
なんだその演出。

二人で、お辞儀。
……なんなんだよ、これ。笑っちゃうだろ。

まったく、いつもこいつのペースに巻き込まれる。

付箋のページを開く。
冷や汗が出た。

これ……僕のブログの記事。
そうだった。後輩くん、言ってたな。
契約書も、交わしたな。

でも――印刷になってみると、違う

ああ、こんなに重たく感じるものなのか。
雑誌は薄いのに、胸の上に広辞苑を積まれたみたいで……
深く息が吸えなかった。

責任とか、名前とか、そういうもの全部が乗ってる気がした。

「やりましたね!」

後輩くんは、すごくいい笑顔で言う。
声が弾んでる。目尻が下がって、無邪気すぎるくらい。

やりましたね、じゃないよ。
どっちかっていうと、“やってしまいましたよ”だよ。

参ったな。
とうとう、出たか。

その場から走り出したくなるような、むず痒いような、
なんとも言えない気持ちがぐるぐるする。

「うーん、どうしたらいいんだ……」

もう契約してるって分かってるのに、ついそんな言葉が出てしまう。

「編集長が、“等身大で思いっきり行ってください”って言ってたんで、それでいいと思いますよ」

だから、“どうしたらいいんだ”って、そういう意味じゃないんだけど。

そもそも僕は、名前を背負う覚悟なんて、
ちゃんとしたことがあっただろうか。

中葉 薫
気がついたらついてたペンネーム。
これも後輩くんが考えた。

悪くない、とは思う。
でも――
それは、僕が僕としてやってきた積み重ねの名前じゃない。
まあ積み重ねられなかったっていうのが、正しい言い方かもしれない。

でももう、走り出してしまった。
誰かが勝手に背中を押してくれたような感じで。
自分で決めきれなかった分、誰かが決めてくれたのかもしれない。
そして、戻る道はなくなっていた。

「……そっか。ありがと」

うまく言えなかった。
強がったつもりはないけど、それしか出てこなかった。

力なく言うと、後輩くんは変わらず笑顔だった。
眩しい。やり遂げた男の顔をしている。
誇らしそうで、でもちょっとだけ、子どもみたいだった。

その顔を見ていたら、なぜか笑いがこみ上げてきた。

「ふははははっ。やるかぁ。やるしかないよな」
「そうですよ!やりましょう!」

なんなんだ、この二人……笑

中葉 薫
僕の、新しい名前。

ため息を二回ついて、雑誌を見つめる。

……これで、やるしかないんだよなぁ。

後輩くんが、グーをこちらに差し出した。
一瞬、時が止まったみたいだった。
目が合う。

子どもみたいな顔のまま、でも――その目だけは、真剣だった。
僕は、少し戸惑って、
でも、拳を突き出す。
ぶつかった手の音が、小さく響いた。

……その瞬間だけは、
ほんの少し、覚悟が決まった気がした。

後輩くんは、本当に、いいやつだ。


恥ずかしい儀式が終わると、茶色の封筒を出してきた。

「なあ、凪、これはなんだ?」

「はい、取材のお仕事です」

後輩くん、ずっと笑顔。

また何か面倒を持ってきてなきゃいいんだけど……

受け取った封筒を、少し自分から離した。
なんとなく、横目で見る。
指先が、ほんの少しぎこちない。

封筒を見つめたまま、目を閉じた。
「嫌なことが起きませんように」
心の中で……祈る。

ふーっ……
息を吐いて、目を開ける。
指先が、封にかかる。

中の企画書を、ゆっくり引っ張り出す。

途中で見えた文字に、僕は力なく椅子に座った。

たぶんこういうの、ピンチっていうんだよ。

コメント

タイトルとURLをコピーしました