
《「おい、どうした」
「実は――」
なんか嫌な予感がする。
朝の静けさを破るノック。
戸を開けると、後輩が“気をつけ”の姿勢で立っていた。
その顔を見た瞬間から、胸の奥がざわついていた。
いつも通りのノリ、だけど――今日は何かが違った。
まさかあんなものを、あんな形で渡されるなんて。》
コンコン!
コンコン!
……誰だよ、こんな朝から。
今日も仕事はない。
ブログをちょっと書かなきゃいけない。
――それも、気が向かない。
何か書きたい気持ちはある。
でもどうしても踏み出せない。
まあ、それが僕だ。
情けないったらありゃしない。
ドアを開けると、なぜか後輩くんが“気をつけ”の姿勢で立っていた。
「おい、どうした」
「実は――」
なんか嫌な予感がする。
何かやらかしたんじゃないだろうな?
そう言いながら、ようやく少し笑った。
「これが、出来上がりました」
彼が差し出したのは、見たことのない雑誌。
白地にシンプルなタイトル、角がまだ硬い。
付箋が、きれいに貼ってある。
よくわからないけれど、後輩くんは表彰状を渡すみたいな感じで、それを僕に手渡してきた。
両手で、丁寧に。
なんだその演出。
二人で、お辞儀。
……なんなんだよ、これ。笑っちゃうだろ。
まったく、いつもこいつのペースに巻き込まれる。
付箋のページを開く。
冷や汗が出た。
これ……僕のブログの記事。
そうだった。後輩くん、言ってたな。
契約書も、交わしたな。
でも――印刷になってみると、違う
ああ、こんなに重たく感じるものなのか。
雑誌は薄いのに、胸の上に広辞苑を積まれたみたいで……
深く息が吸えなかった。
責任とか、名前とか、そういうもの全部が乗ってる気がした。
「やりましたね!」
後輩くんは、すごくいい笑顔で言う。
声が弾んでる。目尻が下がって、無邪気すぎるくらい。
やりましたね、じゃないよ。
どっちかっていうと、“やってしまいましたよ”だよ。
参ったな。
とうとう、出たか。
その場から走り出したくなるような、むず痒いような、
なんとも言えない気持ちがぐるぐるする。
「うーん、どうしたらいいんだ……」
もう契約してるって分かってるのに、ついそんな言葉が出てしまう。
「編集長が、“等身大で思いっきり行ってください”って言ってたんで、それでいいと思いますよ」
だから、“どうしたらいいんだ”って、そういう意味じゃないんだけど。
そもそも僕は、名前を背負う覚悟なんて、
ちゃんとしたことがあっただろうか。
中葉 薫。
気がついたらついてたペンネーム。
これも後輩くんが考えた。
悪くない、とは思う。
でも――
それは、僕が僕としてやってきた積み重ねの名前じゃない。
まあ積み重ねられなかったっていうのが、正しい言い方かもしれない。
でももう、走り出してしまった。
誰かが勝手に背中を押してくれたような感じで。
自分で決めきれなかった分、誰かが決めてくれたのかもしれない。
そして、戻る道はなくなっていた。
「……そっか。ありがと」
うまく言えなかった。
強がったつもりはないけど、それしか出てこなかった。
力なく言うと、後輩くんは変わらず笑顔だった。
眩しい。やり遂げた男の顔をしている。
誇らしそうで、でもちょっとだけ、子どもみたいだった。
その顔を見ていたら、なぜか笑いがこみ上げてきた。
「ふははははっ。やるかぁ。やるしかないよな」
「そうですよ!やりましょう!」
なんなんだ、この二人……笑
中葉 薫。
僕の、新しい名前。
ため息を二回ついて、雑誌を見つめる。
……これで、やるしかないんだよなぁ。
後輩くんが、グーをこちらに差し出した。
一瞬、時が止まったみたいだった。
目が合う。
子どもみたいな顔のまま、でも――その目だけは、真剣だった。
僕は、少し戸惑って、
でも、拳を突き出す。
ぶつかった手の音が、小さく響いた。
……その瞬間だけは、
ほんの少し、覚悟が決まった気がした。
後輩くんは、本当に、いいやつだ。
恥ずかしい儀式が終わると、茶色の封筒を出してきた。
「なあ、凪、これはなんだ?」
「はい、取材のお仕事です」
後輩くん、ずっと笑顔。
また何か面倒を持ってきてなきゃいいんだけど……
受け取った封筒を、少し自分から離した。
なんとなく、横目で見る。
指先が、ほんの少しぎこちない。
封筒を見つめたまま、目を閉じた。
「嫌なことが起きませんように」
心の中で……祈る。
ふーっ……
息を吐いて、目を開ける。
指先が、封にかかる。
中の企画書を、ゆっくり引っ張り出す。
途中で見えた文字に、僕は力なく椅子に座った。
たぶんこういうの、ピンチっていうんだよ。

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