【徹編】第二三話 ズレた時計

《ふいに名前を呼ばれた。
覚えていない顔と、思い出しかけた声。
“うまくいかなかった”という言葉を、
笑いながら口にする自分がいた。

それだけのことだ、と言い聞かせながら、
なんでもない風景のなかで、
自分の「ずれた時間」と向き合う午後。》


駅前を、なんとなく歩いていた。

見るでもなく、探すでもなく。

風が弱くて、空気が滞っていた。

何もしていない体が、じんわりと重い。

人の流れが、視界を横切っていく。

ぼんやりと、眺める。

不意に、何かに呼ばれたような気がして――振り返る。

子供。おじいさん。体格のいいおっさん。

クリーニング屋のおばちゃん。

呼ばれるような覚えは、ない。

ぶらぶらと、また歩く。

ショーウィンドーに、自分が映っていた。

……ここにも、おっさん。

二度目。

今度は、声じゃない。

気配。

重たい足音が、地面ごと揺らしてくる。

誰だ。

(走ってる?)

思わず、二歩、引いた。

「だから、お前、徹だろうって」

見覚えのない顔。

半歩、身をずらす。逃げ道を作るように。

「秋山だよ、秋山」

大きな顔。見開いた目。

目が、強い。

思わず、横にそらした。

名前を聞いても、ピンとこなかった。

うーん……知ってる。秋山。

さわやか。野球部の主将。笑顔。大きい顔。ちょっと、うるさい。

でも。

目の前の男は、恰幅が良くて。

頭も、風通しが良さそうで。

――印象、違いすぎないか?

「野球、の?」

「そうだって。元気だったか?」

「お前、どこ行ってたんだよ」

……どこ行ってたも何も、
結構前から、帰ってきてる。

「東京、行ってたんだっけ?」

視線を落とす。

道路に転がった、小さな石を見ていた。

……ああ、秋山。そういうタイプだったな。

「行ってたけどさ……まあ……」

「都落ちか!」

笑いながら、苦いことを、さらっと言う。

そう。向こうで、うまくいかなかった。

だから、帰ってきた。

――それだけのこと。

何か、言おうとした。

息を吸って。

少し、止めた。

口の端が、すこしだけ動いた。

……笑ったとは言えない。

ただ、それだけのことだった。

……そのまま、吐いた。

近況を、なんとなく報告し合う流れになった。

彼は、地元で仕事を継いで、結婚して、子どもも成人したらしい。

「嫁がさー」

秋山の声が、遠くに聞こえる。

……背中に、太陽がジリジリと焼きついていた。

うまく相づちを打って、当たり障りのないことだけを返した。

足早に、その場を離れる。

「今度、他の連中も呼ぶからさ。飯でも食おうな!」

背中に飛んできた声が、やたらと大きかった。

――やっぱり主将だな。

人を、まとめる声をしている。

アスファルトの切れ目から、雑草が伸びていた。

それを見ながら、歩く。

……外れたのは、社会からだけじゃなかったのかもしれない。

結婚もしなかった。子どももいない。

どこで、間違った?

公園に着く。

ベンチの手すりが、熱い。

額から流れた汗が、目にしみた。

シャツの袖で拭うと、その部分だけ色が濃くなった。

お前は、やればできる。
ふざけるな。
ちゃんと、やれ。

……そんな声が聞こえてくる。

親だったか。昔の上司だったか。
もう、わからない。

僕は、きっと。

社会から見たら「間違ってる人」。

そして今も、何もつかんでいない人。

缶コーヒーを一口。
喉を通る。

ぬるい。
……うすい。

「……どうしたらいいんだろな、俺」

思わず、声に出ていた。

風が、横をすぎた。

風に、歌が混ざってる。

女子学生か。

最近の曲だ。
名前も、歌手も、分からない。

……僕も、子供の頃は、あんなふうに歌ってたのかな。

父が、鞄を忘れたことがあった。

ちゃんとなんか、してないじゃん。

口は、閉じていた。

目は、父を見ていた。

……なんで、今こんなことを思い出したんだろう。

大きく、息を吸った。

しゃくりあげるように、息を吸った。

ぬるいコーヒーの缶を、ベンチに置いた。

「カツン」
音だけが、公園に落ちた。

―― 少し風が吹いた。

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