
《ふいに名前を呼ばれた。
覚えていない顔と、思い出しかけた声。
“うまくいかなかった”という言葉を、
笑いながら口にする自分がいた。
それだけのことだ、と言い聞かせながら、
なんでもない風景のなかで、
自分の「ずれた時間」と向き合う午後。》
駅前を、なんとなく歩いていた。
見るでもなく、探すでもなく。
風が弱くて、空気が滞っていた。
何もしていない体が、じんわりと重い。
人の流れが、視界を横切っていく。
ぼんやりと、眺める。
不意に、何かに呼ばれたような気がして――振り返る。
子供。おじいさん。体格のいいおっさん。
クリーニング屋のおばちゃん。
呼ばれるような覚えは、ない。
ぶらぶらと、また歩く。
ショーウィンドーに、自分が映っていた。
……ここにも、おっさん。
二度目。
今度は、声じゃない。
気配。
重たい足音が、地面ごと揺らしてくる。
誰だ。
(走ってる?)
思わず、二歩、引いた。
「だから、お前、徹だろうって」
見覚えのない顔。
半歩、身をずらす。逃げ道を作るように。
「秋山だよ、秋山」
大きな顔。見開いた目。
目が、強い。
思わず、横にそらした。
名前を聞いても、ピンとこなかった。
うーん……知ってる。秋山。
さわやか。野球部の主将。笑顔。大きい顔。ちょっと、うるさい。
でも。
目の前の男は、恰幅が良くて。
頭も、風通しが良さそうで。
――印象、違いすぎないか?
「野球、の?」
「そうだって。元気だったか?」
「お前、どこ行ってたんだよ」
……どこ行ってたも何も、
結構前から、帰ってきてる。
「東京、行ってたんだっけ?」
視線を落とす。
道路に転がった、小さな石を見ていた。
……ああ、秋山。そういうタイプだったな。
「行ってたけどさ……まあ……」
「都落ちか!」
笑いながら、苦いことを、さらっと言う。
そう。向こうで、うまくいかなかった。
だから、帰ってきた。
――それだけのこと。
何か、言おうとした。
息を吸って。
少し、止めた。
口の端が、すこしだけ動いた。
……笑ったとは言えない。
ただ、それだけのことだった。
……そのまま、吐いた。
近況を、なんとなく報告し合う流れになった。
彼は、地元で仕事を継いで、結婚して、子どもも成人したらしい。
「嫁がさー」
秋山の声が、遠くに聞こえる。
……背中に、太陽がジリジリと焼きついていた。
うまく相づちを打って、当たり障りのないことだけを返した。
足早に、その場を離れる。
「今度、他の連中も呼ぶからさ。飯でも食おうな!」
背中に飛んできた声が、やたらと大きかった。
――やっぱり主将だな。
人を、まとめる声をしている。
アスファルトの切れ目から、雑草が伸びていた。
それを見ながら、歩く。
……外れたのは、社会からだけじゃなかったのかもしれない。
結婚もしなかった。子どももいない。
どこで、間違った?
公園に着く。
ベンチの手すりが、熱い。
額から流れた汗が、目にしみた。
シャツの袖で拭うと、その部分だけ色が濃くなった。
お前は、やればできる。
ふざけるな。
ちゃんと、やれ。
……そんな声が聞こえてくる。
親だったか。昔の上司だったか。
もう、わからない。
僕は、きっと。
社会から見たら「間違ってる人」。
そして今も、何もつかんでいない人。
缶コーヒーを一口。
喉を通る。
ぬるい。
……うすい。
「……どうしたらいいんだろな、俺」
思わず、声に出ていた。
風が、横をすぎた。
風に、歌が混ざってる。
女子学生か。
最近の曲だ。
名前も、歌手も、分からない。
……僕も、子供の頃は、あんなふうに歌ってたのかな。
父が、鞄を忘れたことがあった。
ちゃんとなんか、してないじゃん。
口は、閉じていた。
目は、父を見ていた。
……なんで、今こんなことを思い出したんだろう。
大きく、息を吸った。
しゃくりあげるように、息を吸った。
ぬるいコーヒーの缶を、ベンチに置いた。
「カツン」
音だけが、公園に落ちた。
―― 少し風が吹いた。

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