
《「お疲れさま」って、もう言えなかった言葉だと思っていた。
でも今日、ふいにこぼれたその一言が、思いがけずあたたかくて。
少し前の場所、少しだけ変わった自分。
夏の匂いのなかで、ほんのり沁みた、ある夕方の記録。》
夕方。
暑い。
靴の中まで暑い。
通りの車の照り返しが眩しい。
目を細める。
「あー、暑い!」
小さな声で力なく叫んだ。
叫んだつもり……暑さには勝てない。
用事があって、久しぶりに昔勤めていた会社の近くまで来た。
オフィス街の外れにある、少し古びたビル。
あの会社は、今もそこにある。
たしか、前にもこの道を通って――そのときは、見つからないように路地に逃げた。
なぜだろう。
やましいことなんて、ないはずなのに。
自分から編集長を降りて、辞めたのも自分なのに。
それでも、やっぱり“外れた”という感覚は、まだ少しだけ残っている。
前よりはずっと軽くなったけど。
今日は逃げなかった。
逃げようともしなかった。
たぶん、なんとなく、もう一度見ておきたかったんだと思う。
ちょうど帰宅の時間だったのか、ビルの入口から三人ほど人が出てきた。
見覚えのある顔が混ざっている。
「お疲れさまです」
自然に、そう言っていた。
向こうも、軽く手を挙げて「おお、お疲れさまです」と返してくれた。
聞きましたよ、今度連載するんですって――
そんな話が始まったところで、後輩くんが現れた。
「あ、ちょうどよかった。先輩!」
なぜか嬉しそうな顔。子犬みたい。
見つけたって顔をしている。
それにつられて、こっちも笑ってしまう。
そのまま輪に加わって、少しだけ立ち話。
他愛もない話ばかりだったけど、どこか安心する。
言葉のやり取りに、懐かしいリズムがあった。
相変わらずちょっとズレて、僕も笑う。
一瞬だけ、昔に戻った気分。
あの頃はこんな風に楽しくはなかったけど。
笑い合いながら、なんとなく思った。
――僕がここにいても、いいのかもしれない。
なぜかは、わからない。
でも、そう思った。
いつの間にか、空は夕焼けに染まっていた。
雲が多かったけれど、西の端は綺麗なグラデーションになっていて、どこか絵みたいだった。
勤めていたとき、たぶんこんな空を気にしたことはなかった。
「じゃあ、また」
手を挙げて別れ、ゆっくりと街を歩く。
少し前の自分なら、あの言葉に「またなんて来ないよ」と思っていたかもしれない。
でも、今は違う。
商店街に差しかかる。
少し歩き疲れた足を止めて、お惣菜屋さんの前で立ち止まる。
醤油と砂糖の焦げた匂い。
焼けた鉄板の甘じょっぱいにおいが、腹の底を刺激する。
卵焼きかぁ。
これは絶対に美味しいやつ。
これは美味しい卵焼きにしか出せない匂い。
醤油が先にくるやつ。
お弁当コーナーを見て、卵焼きがメインになっているやつを選んだ。
白ごはんの横に、色の濃い卵焼きが鎮座している。
レジで会計を済ませ、ビニール袋をぶら下げながら歩き出す。
袋が軽く揺れて、気分も少しだけ浮いた。
街の灯りが、夜をまとい始めている。
少しだけ日が傾いた。
日影になるとふっと気が抜ける。
飲み屋の看板が明るく光りはじめ、学生たちの声が路地裏から響く。
そのざわめきのなかを、ゆっくりと歩く。
肩にかかった荷物の重さが、今はちょうどいい。
そして、誰にでもなく、小さな声で言う。
「お疲れさま」
たったそれだけの言葉が、
どこか、ちゃんとしたものに聞こえた。
あの時は言えなかった、この言葉。
「お疲れさま」って、こんなにあったかい言葉だとは思わなかった。
社会に出てからずっと、
お疲れさまは、ただの記号みたいなものだった。
交わしても、残らない。そう思っていた。
でも、今日わかった。
お疲れさまは、それを言い合える“仲間同士”の言葉なんだ。
その仲間って、
何かに属していなくても、ちゃんと存在できるんだ。
「お疲れさま」
もう一度、誰に言うわけでもなく、言ってみた。
通り沿いの小さな川から涼しい風が吹いた。
大きく息を吸い込めた。

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