【徹編】第十七話 投稿ボタンを押した。

《読まれないと思えば、投稿できる。
でも、本当は……知られたくなかったのかもしれない。》


静かだ。
遠くに聞こえる車の音と、たまに子どもが歌いながら自転車で駆け抜けていくのか――
そのくらいしか音が聞こえない。

僕みたいな人間には、そんな子どもの声でも救われることがあるんだよ。

自慢じゃないけど、今日は誰とも話していない。

あー あー
声を出してみる。

時々、音が消えてしまったのかも、なんて不安になるんだ。
そして、声は出るよな?って確認もしたくなる。

何してるんだか。

フリーライターのおっさんなんて、そんなもんだ。

 

冷蔵庫から缶コーヒーを出す。
バタン、という閉まる音が部屋に響いた。

一口飲んで、その冷たさに大きく息を吐く。

静かなのは嫌いじゃない。
自分と向き合える時間がある。
忙しさに流されているよりは、ましな気もするんだ。

もちろん、忙しさに流されていたほうが、考えなくて済むっていうのもあるけど。
それでも、おっさんには考えなきゃいけないことがあるんだよ。たぶん。

 

後輩くんも忙しいのか、「ちょっと色々」と言ってから来ていない。
あいつは、あれでいい。
若い人が伸び伸び動いてるのを見るのは、気持ちがいい。

たまに忘れっぽいところもある。
この間も夜、メールを待っていたんだけど結局こなかった。
次の朝メールが届いたと思ったら、企画をブラッシュアップするとかで…

一体何の企画だったのかよく分からない。

見切り発車で「資料を送ります!」って、
多分、元気が有り余っているんだろう。

若い奴はあのくらい暴走気味な方がいい。
一生懸命さが伝わると、こっちも何とかしてやろうって思う。

何かミスでもしたら、僕が頭を下げてやろう。
僕が謝ったところで、何の価値もないかもしれないけど。
そんなことを思った。

 

「ブログの下書きでもするかぁ」

誰かに向かってでもなく、声を出した。

この頃は少しだけ、ほんの少しだけだけど、来てくれる人が増えた。
たまにコメントが残っていたりすると、とても嬉しくなる。

僕は、まだ社会と繋がってる。
少しの安心感と、少しの不安がある。

 

ラジオをつけた。
「目は心の窓」みたいなことを言っている。

麻衣さんの目が浮かぶ。
カフェで隣にいた、あのときの匂いが、コーヒーの香りに重なった。

 

少し黄ばんだキーボード。
これは背伸びをして、プログラマーっぽいと思って無理して買ったやつ。

男は好きなんだよ、プロっぽい物が。
他の人はどうなのか、僕だけなのかもしれないけど。

意外と手に馴染むし、同じものをずっと使っている。
底の足は折れてしまって、取り替えてもいいんだけど……なんか、捨てられない。

少しくらい欠けていても、まだ役に立つ。

僕自身を、そこに重ねているのかもしれない。

 

キーボードに話しかける。

「さて、書くか」

ゆっくりと、黄ばんだキーを叩き始めた。

 

ブログの下書きフォルダを開く。
そう、少しの不安が、ここに書いてある。

自分宛てなのか、誰に届いてほしいのか……
なんか気持ちがごちゃごちゃするから、そのまま下書きに入れた。

一度、読み返してみた。
もう一度、読み返してみた。
でも、どこを直したいのか、結局わからなかった。

これでいいのか?
届くのか?
誰が読むのか?
誰も読まないかもしれない。

そう思うと、少しだけ楽になる。
でも――

読まれないと思わないと、投稿なんて怖くてできない。

 

ラジオのアナウンサーの笑い声がうるさい。
でも、消すと静かになりすぎる。
今は静けさに、耐えられない。

僕は、そんなところまで中途半端なのか…

 

しばらく下書きを眺めていた。
どのくらい眺めていたのかは、自分でも分からない。

体に力が入る。
気持ちが、ぐちゃぐちゃする。

 

カチッ。

自分でクリックしたのか、間違ったのか、
僕にも分からない――投稿ボタンを押した。

嫌な汗が出てきた。
画面を閉じた。

両腕がジーンとしていた。

自分の言葉が、他人の中に溶けていく。

間違った形で、届いてしまうかもしれない。

もしかしたら、名もなき批判を気にしているのか。

……違うな。
僕は、僕を知られることが、怖いのかもしれない。

マウスから、なかなか手が離れない。

 

深く息が、吸えなかった。

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