【徹編】第十五話 同じ日、それぞれの夜

《少しだけ風が強くて、
少しだけ気持ちがゆるんで、
少しだけ、大事なことを忘れた日。

同じ日、別々の夜を過ごしたふたりの、ささやかな記録》


◆ 後輩くん「まぁいいか、の午後」

高瀬 凪
32歳 男 O型


朝はちょっと苦手。
けど、母の作った味噌汁の香りで目が覚めると、不思議と体が動く。

同居って言うと「珍しいね」とよく言われるけど、
うちはそれなりに仲がいい。
うるさくもないし、適度に距離がある。
たぶん、ちょうどいいって、こういうこと。


トーストを一口かじったところで、父がテレビを消して「そろそろ出るか」とつぶやく。
出るかって、僕まだ食べてるし。
マイペースな父に笑う。


家を出ると、風が思ったより強かった。
駅までの道でふと足を止めて、コンビニに寄る。

表紙の色に惹かれて、いつもの雑誌を手に取る。
back numberの特集がちょっと面白そうだった。買い。


会社までは電車で数駅。
今日も順調。
特に問題もなく、タスクも予定通りに片付いていく。


お昼はちょっとした勝利。
前から気になっていた社食の「限定5食のあれ」にありつけた。
たまたまタイミングが良かっただけだけど、
こういう小さなラッキーって、案外うれしい。


午後は資料作りに集中。
新しく入った後輩の質問に答えつつ、少しだけ先回りして準備しておく。

“できる人”って思われたいわけじゃないけど、
まぁ、段取りが好きなだけ。


定時きっかりで仕事を終え、スマホを確認。
なんとなく、胸の奥に引っかかり。

……何か、忘れてるような。


電車に揺られながら、少しだけ考える。

……あ。
先輩に渡す予定だった資料、メールしてなかった。

うわ、マズい。やっちゃった……
でも、もう電車だし。

……うーん、明日の朝イチでも、たぶん大丈夫。
うん、大丈夫、大丈夫。


鞄の中の雑誌をちらっと見て、目を閉じる。

今日も一日、まぁまぁだったな。

そして心の中で、ちょっと笑いながらつぶやいた。

「まぁいいか。明日の朝、ちゃんとやろう。」


◆ 徹「届かない夜」


夜10時。

カチッ…カチッ
メールの受信ボックスを何度か更新するけれど、目的の添付ファイルは来ない。
間違えて削除してないかとゴミ箱まで確認して、自分の確認癖に苦笑する。


後輩くんに頼んでいた、あの資料。
今日中って話になっていたはずだけど……まぁ、あいつのことだ。

仕事はできる。
でも、たまに、忘れる。
たぶん今日も、どこかで別件に追われてたんだろう。
若いから、そういう日もある。


そう思って、自分に言い聞かせる。
怒るほどのことじゃない。
急ぎじゃないし、明日の朝でも間に合う。


それでも、ちょっと寂しいと思ったのは、
「今ごろ、そろそろ届くかな」と、無意識に待っていた自分に気づいたからかもしれない。


誰かからのメールを待つ夜なんて、久しぶりだ。
それが仕事のものだとしても——いや、仕事だからこそ、
“忘れられてない感”みたいなものを、少し期待してしまっていた。


届かない受信ボックスを閉じて、
湯を沸かし、カップにインスタントのコーンスープを注ぐ。

ちょっと塩気が強い。
けど、夜にはこれくらいがちょうどいい。


スープを飲み干して、椅子に背を預ける。

「雑誌でも読むか」
表紙は、back numberの特集だった。

ラジオで何度か耳にして、なんかいいなと思った。
子どもの頃、ラジオで流れていた村下孝蔵を思い出す。

なんだろうな、言えないことを言ってくれる、そんな歌。

あいつも、これ読んでるだろうか。
いや、今の世代には、ああいう歌はもう届かないかもしれない。

それならそれで、また話すきっかけができる。


メールは、きっと明日の朝には届く。
あいつは、そういうやつだ。
そのくらい、分かってる。

「まぁ、いいか。俺も、昔は忘れてばっかだったしな」


窓の外は静かだった。
今日も誰とも話さなかった。

でも、誰かを思い出す時間があったことが、
少しだけ温かかった。

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