
《なんかだめになった日
でも、”なんか”が、なんなのかは分からなかった日でした》
カタカタカタ、キーボードが調子のいい音を立てる。
湿った空気が少しだけ気持ち悪い。
「梅雨はこんなもんか」
誰もいない部屋、ちょっと大きなひとりごと。
返事もない。
返事があったら、その方が恐い。
おっさんの一人なんてこんなもの。
くだらないことを考えたりする。
午前中はブログを書いた。
頼まれていたゴーストライターの仕事も、なんとか仕上げた。
悪くない日だ。
やることがある。必要とされている。
それは、ありがたいことだ。
それなのに。
昼を過ぎた頃、なんか部屋の空気が変わった気がした。
突然何もやりたくなくなった。
飲みかけの缶コーヒーは温くなっていて、
PCのファンの音が、いつもより耳についた。
なぜなのかは、分からない。
ただ、家にいたくなかった。
どうせやっても無駄だみたいな、そんな考え。
襲ってくるというよりは、じわじわ引きずり込まれるような感じ。
ひたすら歩きたい気分だった。
多分その気分さえ、後付けの理由。
理由なんて、いつもよく分からない。
わからなくていい。
あーでもなんか動くのも面倒くさい。
でもこのままだとたぶん、だめな一日になる。
パソコンをスリープにして勢いをつけて立ち上がる。
椅子の肘掛けが机の引き出しにぶつかってガシャンと嫌な音がした。
とにかく、ただ歩いた。
それだけだった。
腰をそらして、伸びをした。
空を見上げる。
背中に鈍い痛みが走った。
半日もパソコンの前に座っていれば、そりゃあ身体にもくる。
僕も若くはない。
まぁ、そうだろう。
空には、厚くて重たい雲。
湿った空気が、じんわりと肌にまとわりつく。
少し動くとツーっと汗が流れる。
風が吹くとちょっと冷える。
子供の時はこんなことでも風邪をひいてたんだよなぁ、
なんて、どうでもいいことを思い出した。
気づけば、橋を越えて河川敷まで来ていた。
柔らかく濡れた草の匂い。
遠くで草刈り機のエンジンの音が聞こえる。
キーン、チンッという、多分草刈機の刃に石か何かが当たっている音なんだろう。
結構響く。
トンビがゆっくりと旋回していた。
そこにカラスが鳴きながら近づいて、
螺旋に互いに落ちては、急上昇している。
遊んでいるのか、縄張り争いなのか。
僕に鳥の事情は分からない。
小鳥の高い声も、どこからか響いている。
誰かに会いたいわけじゃなかった。
どこかに行きたいわけでもなかった。
でも、止まっていると、何かに捕まってしまいそうな気がして。
自転車が後ろから軽やかに追い抜いていく。
「こんにちは!」
高校生くらいの男の子が、元気に声をかけてきた。
「お、おう、こんにちは!」
少し遅れて返した声は、追いつけたか分からない。
……なんか、青春だな。
若いって、いい。
帰り道、いつものカフェ…うーん
今日は気分じゃなかったから、前を通り過ぎた。
ぽつぽつと雨が落ちてきた。
むわっと雨の時のアスファルトの匂いが立ち込める。
とうとう降り出したかぁ。
少しだけ早歩き。
走れないこともないけれど、無理してまで急ぐ理由もない。
いつもの公園の前で、雨脚が強くなった。
カフェに入っておけば良かったかな。
こういう時、僕はやっぱりタイミングが悪い。
いつもの公園に避難する。
小さな円錐の屋根の下、ぐるりと繋がった丸いベンチ。
まだ降られるとは思わなかった。
ちょっと歩きすぎた。
傘は無い。
いや、昨日の朝まで家にあった。
透明なビニール傘。もう、くすんでいた。
穴があいていたけれど、まだ使えた。
でもなぜか、捨てた。
なんとなく、お疲れさん、て思った。
そして今日、雨が降る。
……僕らしい。
人生うまくいかない大全があったら、たぶん僕がサンプル。
雨だれが、ぽたぽたと屋根から落ちる。
足元には、小さな水たまり。
じわーっと広がって、少しずつ大きくなる水たまり。
それを見ていた。
サーッという音を聞いていた。
なぜだろう、心地よくて、いつまでも聞いていたい。
そういえば、小学生の頃、
傘を振り回して、逆さにして雨を溜めたっけ。
くるくる回して、友達と笑って。
あの頃は、雨も楽しいイベントのひとつだった。
車の走る音に混ざって、ラジオかな?
大きなこもった音で、曲が聞こえてきた。
「わたーらせ ばーしで」
この曲、知ってる。
森高千里だったかな。
雨の季節になると、どこかで一度は耳にする。
けれど、こんな場所で聞くとは思わなかった。
どうせなら、橋の上で聞きたかった。
三本先の道に、商店街に続く橋がある。
あそこなら、ちょっと絵になったかもしれない。
なんて、どうでもいいことを考える。
視界の端に、白い車が近づいてくる。
「おぉ、プレリュードじゃん!」
思わず声が出た。
懐かしい。バブルの頃、よく見た車だ。
デートカーなんて言われてた。
僕が二十代後半くらいだったか。
ちょうど社会に出て間もない頃。
毎日スーツを着て、営業に出て、頭を下げて。
書店の棚卸しまで手伝って、終電を逃したこともある。
結果が出なければ、怒鳴られた。
人格を否定するような言葉も、平気で飛んできた。
今みたいに「コンプライアンス」なんて言葉、誰も知らなかった。
それでも、どうにか認められたくて。
「BIG FUTURE」みたいな雑誌を毎月買って、営業本も読んで。
……僕だって、がんばってた。
もっと、がんばりたかったんだよ…
いつのまにか、小降りになっていた。
先を見ると、雲が切れて、まっすぐに日が差している。
このまま、少し濡れてもいい。
雨は、すぐに止むだろう。
公園を出て、歩き出す。
やっぱり走らない。
このぐらいのペースがいい。
途中のほか弁屋で、お弁当を買う。
「のり弁ひとつ。あ、あと味噌汁も」
「お会計、660円になります」
今日も人と会話した。
まぁ、雨の日なんて、こんなもんだろう。
悪くない日だ。

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