
《調子が今ひとつだなと思う日。
でも、そんな日が、決して「悪い日」になるとは限らない。
思ってもみなかった出来事が、そっと訪れることもあるから。》
特に理由はないけど、朝からずっと、うまく乗れていない。
いつもの椅子のはずなのに、
今日はなんだか硬く感じる。
……そう、ほんの少しだけ。
背中のあたりが、じんわり重い。
背もたれに触れている部分が、落ち着かない。
「あー、なんかだめだ」
充実感とか達成感とかは、ちょっと遠くて。
でも、「何もしてない」ってわけでもないんだよ。
ただやっていることが、何かを消化することみたいな。
そこには、何も生み出していなくて……。
「出かけてみるか」
少しだけ、外の空気に頼ってみたくなった。
椅子が鈍く、ギーとなった。
気分転換でもするか。
気分が落ち込んでいるわけでもないんだけど。
こんな日もある。
仕事や、モヤモヤした日々で来られなかったカフェ。
来たいけど……来たくなったのかもしれない。
でも、それだけじゃない気もした。
何かを期待してるような、
それを打ち消そうとしてるような――。
この考えも、自分をごまかそうとしてるんだろうな。
本当は、怖いんだ。
今の自分には、まだ、何もない。
よく分からないまま、気がつけば足が向いていた。
カウンターに座った。
いつもの席ではない。なんとなく、カウンター。
マスターに「ブレンド」と一言。
マスターが、少し微笑んだ気がした。
この店は、朝の9時から開いている。
まだ朝の雑踏には紛れられなかった。
多分、僕が歩いても、あの中から弾かれてしまいそうだから。
僕にはもう少しだけ、何かが、足りないんだ。
人の心なんて、簡単には変わらない。
でも、変わらないわけでもないんだ。
そんなことを考えながら、いつものコーヒーを飲む。
カラーン。
ドアが開いた。
気になるけど、あえて見ない。
コーヒーの表面が、ほんの少しだけ揺れた気がする。
映った顔が、その揺れに合わせて形を変える。
揺れているおっさんの顔なんて、絵にもならない。
天井には、ゆっくりとファンが回ってるのが映る。
トン。
肩を叩かれた。
右肩がぴくっと動いた。
……その手は、すぐに離れた。
「おはようございます」
……麻衣さん?!
麻衣さんから声をかけられた。
先日のお礼を丁寧に言い、それで終わりだろうと思った。
「横、いいですか?」
僕はゆっくり頷いた。
だって今、声を出したら絶対に「はひ!」みたいな間抜けな声になるから。
心臓がうるさい。
おっさんが急に心拍が上がるのは、良くないんだよ。
そんなことを考えて、落ち着こうとしてる自分がわかる。
「マスター、一番安いの」
麻衣さんがイタズラっぽく注文する。
マスターが一瞬、動きを止めた。
そして微笑みながら、「一番安いブレンドですね」と柔らかく返した。
「はい」
麻衣さんが、イタズラっぽく笑ってる。
可愛い。
うん、ほんとに可愛い。
綺麗で可愛い人なんて、おっさんの心臓に悪いんだよ。
時を止めたい。
ずっと見ていたい。
そんな子どもみたいなことを考えた。
こんな時、スマートな男なら気の利いたことも言えるんだろう。
何を話せばいいんだ。
そんな時――
「ブレンドでございます」
マスター、丁寧だな。
僕の時は「はいどうぞ」だったろ、と余計なことを考えて、少し落ち着く。
「にがい」
麻衣さんが笑いながら言った。
「ここのは苦いんですよ」
気がついたら、会話になっていた。
取材の話、スタッフの子の話、後輩の話、原稿の話――
麻衣さんは、ふとカップに視線を落とした。
一瞬だけ、そこにいないような雰囲気があった。
「あれが私なのか分からないんです」
そう言って、マスターに「ごちそうさま」と伝え、席を立った。
残された僕。
何があったのか、整理がつかないでいると、マスターが「はい、おかわり」
マスターと目が合ったら、少し笑ってた。
同世代、なんでもお見通し……だよな。
一人取り残された後、コーヒーをゆっくりと飲み切ってから帰ってきた。
歩きながら、いろいろ考えた。
何もわからない。
何も決まらない。
それでも、考えた。
誰かの自転車のライトが、すっと通り過ぎた。
気がついたら、街灯が道を照らしてる時間になっていた。
背中に残っていたのは、コーヒーの苦さと、カウンターの椅子の硬さだった。
ソファーに、一人。
くつろいでる――というよりは、
ただ、力なく座ってるだけ。
ソファーの革が、背中のシャツ越しにじわりと伝わる。
少しひんやりしていて、でも、動く気にはなれない。
昼間のことを、ずっと考えていた。
緊張したけど、楽しかった。
……うん、楽しかったと思う。
なんだか、学校の帰り道で、
偶然“好きな子”と帰り道が重なったみたいな気分だった。
偶然――って言っても、
ブロック塀に寄りかかりながら、空を見て、
少しだけ時間を調整して、重ならないかなーって、
“期待してた”あの頃の自分に似ている。
……僕は、いくつになっても変わってないみたいだ。
「あれが私なのか分からないんです」
あの言葉が、ずっと頭の中に残ってる。
“自分がわからない”ってこと。
“今の自分が自分なのか、分からない”ってこと。
――僕も、そうだな。
自分が何者なのか。
なぜここにいて、何をしているのか。
……今もよく分からない。
彼女が抱えているものと、
僕が抱えているものは、きっと違う。
だから、「分かるよ」なんて、軽くは言えない。
引き止めて、何か言えばよかったのかもしれないけど――
たぶん、何も言えなかっただろう。
僕は、今の苦しみがあっても“しょうがない”って思ってる。
それくらい、生き方が下手だったから。
でも――
彼女の苦しみが、少しでも軽くなってほしいと、
本気で、そう思ってしまう。
あのさみしそうな目。
あれは見続けたくない。
見返りなんて、別にいらない。
ただ、あの笑顔が――続いていたら、いいなって。
僕も、もうそういう年齢じゃないって、分かってる。
仕事にありつくのが精一杯で、何を言ってるんだか……
他人の幸せを願う資格があるのかどうかさえも怪しい。
でも……
あの笑顔を、少しでも守れる自分だったら――
そんなふうに、思ってしまうんだ。

コメント