【徹編】第十二話 すれ違いのあとで

《誰にも見られていない時間。
誰にも見られていない自分。

書くことを諦めかけた男が、
ある朝すれ違ったのは、ひとりの女性と、
まぶしすぎる青空でした。》


朝の散歩、というより……ただ、歩いていただけだった。

目的があるわけじゃない。
意味があったのかと訊かれたら、困る。

でも、こうして外を歩いていることが、何かから逃げるようにも見えて――
何かに向かっているようにも、見せかけているだけのような。

この前、何かで読んだ。
毎朝、歩くことで気持ちを整えるっていう、作家の話。

僕も、昔は……書くことに、憧れていた。

だからって、いまのこれは――その真似事、というのとも、ちょっと違う。
もっとこう……うまく言えないけど、“形”だけが先にあって、中身は、ない。

「……僕は、どうしたいんだろねぇ」

ひとり言。
ひとりぶんの空気にしか、届かない声。
誰かに届かせたかったのか、それはわからない。

大通りに出た。
音が押し寄せてくる。
まるで自分だけ、時間の止まった場所にいるみたいだった。

営業車、配達バイク、誰かの大声。急ぎ足の人たち。

動いているのは、世界のほうだけだった。

その街のリズムに、自分の歩幅が合わなくなる。

そんな気がして、足を止める。

人混みに、混ざりきれない。
でも、離れられもしない。

この感じ――誰かと約束してたのに、気づいたら、時間が過ぎていて。
バスが出発したあとのバス停に、一人きりで立っているみたいな。

……そんなことを思っていたら、信号の向こうに、麻衣さんがいた。

今日も、きちんとした格好。

まっすぐ歩く姿に、気持ちが引き戻される。

止まった時間のなかで、あの人だけがちゃんと動いているみたいだった。

――目が、合った?
……いや、わからない。

慌てて視線を外した。

見られたくなかった。
いや、ほんとは、見てほしかったのかもしれない。

でも。そのどちらを選んでも、たぶん、傷つく。

だから、選べなかった。
ただ、そらした。

麻衣さんは、仕事。

僕は――今日も、ただの“フリ”。

惨めだとか、恥ずかしいとか、そんな簡単な言葉で済ませたくないくらい、
全部が、痛かった。

信号が変わる。

ピッピッという音が、さっきよりも鋭く響いた気がした。

背中を押されたみたいに、足が動く。

でも、どこに行きたいかなんて、決まってなかった。

何かを考えるふりをしていたけど――
ほんとうは、考えたくなかっただけかもしれない。

すぐ近くの路地に入る。

通りのざわめきが、背後で遠のいていく。
少しだけ気温が低くなったみたいだ。

代わりに聞こえるのは、ほうきで地面を掃く音。
どこかで水が流れている音。
誰かの日常の音。

T字路。
足が止まる。

上を向いた。
空は、雲ひとつなかった。

水色でもなく、淡いでもなく。
はっきりとした、青。

……僕には、少し眩しい。

足元に、何かが落ちていた。

しゃがむと、それは短くなった鉛筆だった。

先が丸く削れて、側面には、小さな傷がいくつもついていた。

たぶん、長く使われていたんだろう。

大切にされていたのかもしれない。
あるいは、ただ、ずっと捨てられずにいたのか。

空にかざしてみる。

鉛筆の黒と、空の青。
光のなかに、それが浮かんでいた。

「……俺は、書きたいんだよ」

自然に出た。
つぶやく、というより、置くように、言った。

返事なんて、あるわけない。

でも、そう言った瞬間、少しだけ、何かが変わったような気がした。

そのとき、黒い猫が通り過ぎた。

こちらを見て、一瞬、立ち止まる。

何も言わず、また歩いていった。

「……なんだよ」

思わずそう呟いて、自分でも笑ってしまった。

ああ、こういうのだよな。
こういう、誰にも見られていない時間。
誰にも見られていない自分。

そのまま、歩き出す。

歩きながら、昔のことを、思い出していた。

初めて、詩を書いたときのこと。

何の賞にも引っかからなかった。

でも、あのときの自分は――真剣だった。

言葉の選び方なんてひどかった。

今読み返したら、たぶん顔をしかめるような文章。

でも……声に出して読んだとき、どこか、自分のなかで「これでいい」って思った。

それは若さだった。

でも、ちゃんと“信じてた”。

「そんなに、いいもんじゃなかったな」

笑うように言った。

ほんとうは少しだけ、悔しさが残っていた。

顔を上げる。

振り払うように、もう少しだけ足を速める。

いつもの公園が、近づいてきた。

土の匂い。

自販機で買ったコーヒーの缶は、まだあたたかい。

両手でその温かさを包むように感じた。

この場所は、僕だけの場所――だったはず、なのに。

先客がいた。
高校生くらいの、男女ふたり。

そういえばこの子達、前にも何度か見たことある気がする。

やっぱりあの時も、遊んでたよな。

バドミントンの羽根が、風にあおられてふわりと空中を漂っていた。

その羽根を、ふたりで追いかける。

笑いながら、軽くステップを踏んで、真っすぐな身体が跳ねるように伸びる。

まぶしいな、と思った。

若さ、というより――“ためらいのない動き”が。

ベンチに腰を下ろす。

視線は彼らに向けたまま、でも、顔は動かさない。

どこか遠くの風景を見るふりをしていた。

すると、

「おじさんも、やりませんか?」

女の子が、笑って言った。

一切の遠慮がなかった。
それが、少し、刺さった。

続けて、男の子がラケットを差し出してきた。

「やりましょうよ」

軽く言ったその声も、まっすぐだった。

どうしてだろう。

断らない方が、自然に思えた。

きっと彼らには、僕が「断らないだろう」と思えたのだろう。

そういう空気だった。

……もしかしたら、僕の“寂しさ”が透けて見えていたのかもしれない。

そう思った自分が、いちばん嫌だった。

でも、受け取った。

ラケットは、思ったより軽くて、なんだか、懐かしい手触りだった。

羽根が、ゆるく舞う。

タイミングを見て、腕を振る。

ぜんぜん当たらなかった。

でも、それを見て笑われるのは――嫌じゃなかった。

額に汗が滲む。

息が、少しずつ上がる。

それすら、久しぶりだった。

「ぜったい、取ってやる」

そんな子どもみたいな声が出て。

思いきり腕を伸ばした瞬間、バランスを崩して、転んだ。

笑い声が上がる。

ふたりが駆け寄ってくる。

「大丈夫ですか?」

見下ろされて、ちょっとだけ目を細める。

眩しかった。
光も、声も。

「楽しかったよ。ありがとう」

「おっさんは、もう限界だよ」

笑った。
ほんとうに笑った。

気づけば、3人で、大笑いしていた。

帰ろうとしたとき、女の子が手を振った。

「またやりましょうね」

その言葉が、どこかに少しだけ触れた気がして――
声が自然に出た。

「おぉ!」

手を振り返す。

まっすぐな動きではなかったけど、ちゃんと、届くように振った。

公園を出る。

通りに出ると、また音が戻ってくる。

車の音。風の音。
遠くで、工事の金属音も響いていた。

でも――さっきまでと、何かが違っていた。

音が増えたのに、それが“寂しい”とは思わなかった。

いや、思おうとしていなかっただけかもしれないけれど。

足元を見る。
歩いている。

少しだけ、前を向いている。

「……そうだよ」

自然と声が出ていた。
いや、声を出したくなった。

「俺だって、書いていいんだよ」

誰に許されたわけでもない。

けど、誰かに許されるのを待つのは、もう、やめようかと思った。

うなずく。小さく。

それだけで、胸の奥にあった何かが、ほんのすこしだけ、ほどけた気がした。

何を書くのかは、まだわからない。
何を書けばいいかも、きっと決まってない。

でも、それでいい。
今は、それで。

空を見上げた。
朝よりも、青が強くなっている。

「それにしても……眩しいな、今日は」

目を細めた。

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