
《誰にも見られていない時間。
誰にも見られていない自分。
書くことを諦めかけた男が、
ある朝すれ違ったのは、ひとりの女性と、
まぶしすぎる青空でした。》
朝の散歩、というより……ただ、歩いていただけだった。
目的があるわけじゃない。
意味があったのかと訊かれたら、困る。
でも、こうして外を歩いていることが、何かから逃げるようにも見えて――
何かに向かっているようにも、見せかけているだけのような。
この前、何かで読んだ。
毎朝、歩くことで気持ちを整えるっていう、作家の話。
僕も、昔は……書くことに、憧れていた。
だからって、いまのこれは――その真似事、というのとも、ちょっと違う。
もっとこう……うまく言えないけど、“形”だけが先にあって、中身は、ない。
「……僕は、どうしたいんだろねぇ」
ひとり言。
ひとりぶんの空気にしか、届かない声。
誰かに届かせたかったのか、それはわからない。
大通りに出た。
音が押し寄せてくる。
まるで自分だけ、時間の止まった場所にいるみたいだった。
営業車、配達バイク、誰かの大声。急ぎ足の人たち。
動いているのは、世界のほうだけだった。
その街のリズムに、自分の歩幅が合わなくなる。
そんな気がして、足を止める。
人混みに、混ざりきれない。
でも、離れられもしない。
この感じ――誰かと約束してたのに、気づいたら、時間が過ぎていて。
バスが出発したあとのバス停に、一人きりで立っているみたいな。
……そんなことを思っていたら、信号の向こうに、麻衣さんがいた。
今日も、きちんとした格好。
まっすぐ歩く姿に、気持ちが引き戻される。
止まった時間のなかで、あの人だけがちゃんと動いているみたいだった。
――目が、合った?
……いや、わからない。
慌てて視線を外した。
見られたくなかった。
いや、ほんとは、見てほしかったのかもしれない。
でも。そのどちらを選んでも、たぶん、傷つく。
だから、選べなかった。
ただ、そらした。
麻衣さんは、仕事。
僕は――今日も、ただの“フリ”。
惨めだとか、恥ずかしいとか、そんな簡単な言葉で済ませたくないくらい、
全部が、痛かった。
信号が変わる。
ピッピッという音が、さっきよりも鋭く響いた気がした。
背中を押されたみたいに、足が動く。
でも、どこに行きたいかなんて、決まってなかった。
何かを考えるふりをしていたけど――
ほんとうは、考えたくなかっただけかもしれない。
すぐ近くの路地に入る。
通りのざわめきが、背後で遠のいていく。
少しだけ気温が低くなったみたいだ。
代わりに聞こえるのは、ほうきで地面を掃く音。
どこかで水が流れている音。
誰かの日常の音。
T字路。
足が止まる。
上を向いた。
空は、雲ひとつなかった。
水色でもなく、淡いでもなく。
はっきりとした、青。
……僕には、少し眩しい。
足元に、何かが落ちていた。
しゃがむと、それは短くなった鉛筆だった。
先が丸く削れて、側面には、小さな傷がいくつもついていた。
たぶん、長く使われていたんだろう。
大切にされていたのかもしれない。
あるいは、ただ、ずっと捨てられずにいたのか。
空にかざしてみる。
鉛筆の黒と、空の青。
光のなかに、それが浮かんでいた。
「……俺は、書きたいんだよ」
自然に出た。
つぶやく、というより、置くように、言った。
返事なんて、あるわけない。
でも、そう言った瞬間、少しだけ、何かが変わったような気がした。
そのとき、黒い猫が通り過ぎた。
こちらを見て、一瞬、立ち止まる。
何も言わず、また歩いていった。
「……なんだよ」
思わずそう呟いて、自分でも笑ってしまった。
ああ、こういうのだよな。
こういう、誰にも見られていない時間。
誰にも見られていない自分。
そのまま、歩き出す。
歩きながら、昔のことを、思い出していた。
初めて、詩を書いたときのこと。
何の賞にも引っかからなかった。
でも、あのときの自分は――真剣だった。
言葉の選び方なんてひどかった。
今読み返したら、たぶん顔をしかめるような文章。
でも……声に出して読んだとき、どこか、自分のなかで「これでいい」って思った。
それは若さだった。
でも、ちゃんと“信じてた”。
「そんなに、いいもんじゃなかったな」
笑うように言った。
ほんとうは少しだけ、悔しさが残っていた。
顔を上げる。
振り払うように、もう少しだけ足を速める。
いつもの公園が、近づいてきた。
土の匂い。
自販機で買ったコーヒーの缶は、まだあたたかい。
両手でその温かさを包むように感じた。
この場所は、僕だけの場所――だったはず、なのに。
先客がいた。
高校生くらいの、男女ふたり。
そういえばこの子達、前にも何度か見たことある気がする。
やっぱりあの時も、遊んでたよな。
バドミントンの羽根が、風にあおられてふわりと空中を漂っていた。
その羽根を、ふたりで追いかける。
笑いながら、軽くステップを踏んで、真っすぐな身体が跳ねるように伸びる。
まぶしいな、と思った。
若さ、というより――“ためらいのない動き”が。
ベンチに腰を下ろす。
視線は彼らに向けたまま、でも、顔は動かさない。
どこか遠くの風景を見るふりをしていた。
すると、
「おじさんも、やりませんか?」
女の子が、笑って言った。
一切の遠慮がなかった。
それが、少し、刺さった。
続けて、男の子がラケットを差し出してきた。
「やりましょうよ」
軽く言ったその声も、まっすぐだった。
どうしてだろう。
断らない方が、自然に思えた。
きっと彼らには、僕が「断らないだろう」と思えたのだろう。
そういう空気だった。
……もしかしたら、僕の“寂しさ”が透けて見えていたのかもしれない。
そう思った自分が、いちばん嫌だった。
でも、受け取った。
ラケットは、思ったより軽くて、なんだか、懐かしい手触りだった。
羽根が、ゆるく舞う。
タイミングを見て、腕を振る。
ぜんぜん当たらなかった。
でも、それを見て笑われるのは――嫌じゃなかった。
額に汗が滲む。
息が、少しずつ上がる。
それすら、久しぶりだった。
「ぜったい、取ってやる」
そんな子どもみたいな声が出て。
思いきり腕を伸ばした瞬間、バランスを崩して、転んだ。
笑い声が上がる。
ふたりが駆け寄ってくる。
「大丈夫ですか?」
見下ろされて、ちょっとだけ目を細める。
眩しかった。
光も、声も。
「楽しかったよ。ありがとう」
「おっさんは、もう限界だよ」
笑った。
ほんとうに笑った。
気づけば、3人で、大笑いしていた。
帰ろうとしたとき、女の子が手を振った。
「またやりましょうね」
その言葉が、どこかに少しだけ触れた気がして――
声が自然に出た。
「おぉ!」
手を振り返す。
まっすぐな動きではなかったけど、ちゃんと、届くように振った。
公園を出る。
通りに出ると、また音が戻ってくる。
車の音。風の音。
遠くで、工事の金属音も響いていた。
でも――さっきまでと、何かが違っていた。
音が増えたのに、それが“寂しい”とは思わなかった。
いや、思おうとしていなかっただけかもしれないけれど。
足元を見る。
歩いている。
少しだけ、前を向いている。
「……そうだよ」
自然と声が出ていた。
いや、声を出したくなった。
「俺だって、書いていいんだよ」
誰に許されたわけでもない。
けど、誰かに許されるのを待つのは、もう、やめようかと思った。
うなずく。小さく。
それだけで、胸の奥にあった何かが、ほんのすこしだけ、ほどけた気がした。
何を書くのかは、まだわからない。
何を書けばいいかも、きっと決まってない。
でも、それでいい。
今は、それで。
空を見上げた。
朝よりも、青が強くなっている。
「それにしても……眩しいな、今日は」
目を細めた。

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