【麻衣編】第三二話 水風船の夜

「ここの高台から、よく見えるんですよ」

神社の石段に、ふたり並んで腰を下ろした。
石が、じんわりと肌を冷やす。熱を持った空気の中で、それだけが少し違っていた。

屋台の明かり。人の流れ。
向こうには、やぐらも見える。お囃子の音が、風に乗って遠くから聞こえてくる。

「祭り全体が、生きてるみたいでしょ」
一度そう言って、徹はもう一度、同じ言葉を繰り返した。

「……よく見えるんですよ」

“生きてる”。この人は、こんなふうに受け止めるのね。
麻衣は頷いた。視線の先で揺れている人のうねりが、本当に“生きてる”何かに思えた。


高台から、祭りの会場へと下りていく。

「そこのきれいな奥さん、焼きそば美味いよ!」
屋台のおじさんが、威勢のいい声を投げてきた。

「買いますか?」
麻衣が徹をのぞき込むように尋ねる。
少しの恥じらいを、隠すように。屋台の明かりが髪に落ちていた。

子どもが転んで、大きな声で泣き出す。
「だから手を繋いでって、言ってるでしょぉ」
母親の声が響いた。

麻衣の目に、屋台の明かりが映っている。
その明かりが、少しだけ揺れていた。

人の波にまぎれて歩き出す。

「奥さんだなんて……なんかごめんなさい」
徹がぼそっと謝った。

「今日はお祭りですから」
目を伏せて、口元だけが緩んだ。

人が増えてきた。
すれ違うたびに、肩がぶつかる。

「増えてきましたね」
「私も、転んじゃうかもしれませんよ?」

いたずらっぽく笑う麻衣。
徹は、下を向いたまま歩いていた。

また誰かとぶつかる。
湿ったシャツが背中に貼りつく。
その冷たさに、足が止まりかけた。

何も言わず、麻衣の手を引いた。
二人も黙ったまま、歩き続けた。

繋いだ手から、息遣いが伝わってくる。


通りの隙間に、小さな射的屋があった。
麻衣が、急に立ち止まる。

「……猫ちゃん」

棚の上に、ちいさなぬいぐるみが乗っていた。

「見ててね」

渡された銃を両手で構える。
身を乗り出して、息を止める。

パン、と軽い音。
コルク玉が飛んで、猫のぬいぐるみにかすった。

ぬいぐるみは、ほんの少し揺れただけだった。

「惜しかったなぁ」
笑いながら銃を戻す麻衣。
風鈴のような笑い声だった。

徹は何も言わず、揺れたまま戻らない猫を見ていた。


少し歩いた先に、水風船釣りの屋台があった。
紙の糸と小さな針にぶらさがった水の玉。
風に揺れて、光を跳ね返している。

「これも、いい?」
麻衣が声をかけた。

息を止めて、水面に糸をたらす。
揺れる水風船をつり上げた時、紙の糸が切れた。

「釣れなかった……」

小さく笑って手を離す麻衣に、徹が声をかける。

「……ちょっと待ってて」

今度は、徹が屋台の前に立った。

麻衣と同じように、息を止める。
もう一度大きく息を吸って、そっと、震える指を押さえ込むように。

ゆっくりと。

しばらくして、彼の手の中に小さな水風船があった。

「はい」
手をまっすぐに伸ばす。

「ありがとう」

風が吹いた。
水風船が、しゃぼん玉みたいに揺れた。


「奥さん、わたあめは?」

屋台のお兄さんが声をかけてくる。
麻衣が下を向いた。屋台の明かりで耳が赤く見えた。

「旦那さん、奥さんに買ってやりなよ」

二人で顔を見合わせて、ひとつ、わたあめを買った。
ふわふわで、大きすぎて、どこから食べればいいかわからない。

「はい、あーん」

麻衣が笑いながら、わたあめを差し出す。
その仕草が、冗談とも本気ともつかなくて、徹は少しだけ戸惑った。

けれど、顔を近づけて、小さく口に入れる。
ふっと、甘い気配だけを残して、舌の上で綿菓子が消えた。

それは、触れたと思った瞬間にはもうどこにもなかった。
けれど、甘さだけが、ほんの少しだけ残っていた。

徹は、口の中を確かめるように、静かに息を吐いた。
麻衣は、そんな彼の横顔を見て、何も言わずに歩き出した。


帰り道。麻衣の手には、水風船。

「こんなの、子どもの時以来よ」

先を歩いて、振り向きざまに笑う。
その目には、祭りの明かりが映っていた。

徹は頷いた。目は、しっかりと麻衣を見ていた。

角を曲がる。風が少し涼しくなった。

「じゃあ、私こっちだから」

「あの……」

麻衣が立ち止まる。振り返って、黙って見つめる。

「送ります。危ないから」

「……はい」

笑顔のまま、並んで歩き出す。
なにも言わずに、同じ方を向いて。

ふわっと、二人の背中に風が吹いた。
街灯が、遠くの道をぼんやりと照らしていた。

遠くに、お囃子の笛が聞こえた。


カシャン。

いつものドアの音。
でも、今日はなんだか軽く聞こえた。

靴を脱いで、部屋に上がる。

静かな部屋。
お祭りのあとのせいか、いつもより静けさが染みる。

息を止めて、耳を澄ました。
部屋の音を探すように。

冷蔵庫からペットボトルのお水を取り出して、額に当てた。

目を閉じて、ふーっとひとつ、大きく息を吐く。
キャップをカチッとあけて、ごくごくと飲む。

体の奥のほうに冷たさが広がる。

不思議な時間だった。
何も重さを感じない時間。

誰に会う時でも、いつも何かが重かった。
多分、見られている。そんな重さ。

水風船をしばらく眺めていた。

テーブルの上の水風船は、指で突くと少しだけ揺れた。
もう一度、指で突く。また少し揺れた。

揺れるたび、少しだけ──思い出す。

高台から見えた明かり、人。
聞こえてきた、お囃子。

もう今は聞こえないはずなのに、笛が聞こえてくる気がする。

あと……

「奥さん」て言われて、ちょっと照れた。

中原さんは、何か気まずそうだった。

でも――
嫌だとは思われてないよね?
少しだけ、そこが心配になった。

中原さんが、手を引いてくれた。
大きな手。だけど、無口な人。

なのに、どうしてだろう――
それが、安心できた。

二人とも、あまり喋らなかった。
でも、喋らなくていいと思った。

不思議と、寂しくはなかった。

水風船。
糸が切れて、なかなかうまくいかなかった。

だんだんムキになってきて、
中原さんに見られてるの、ちょっとだけ恥ずかしかった。

笑ってたな、あの人。

水風船を釣り上げた中原さん。
なんだか――らしかった。

すごく、不器用な人なんだろうな。
でも、真剣に物事に向かう人。投げ出さない人。

それを考えていたら、
少しだけ――

見慣れた部屋の景色が、滲んで見えた。

多分、明日から何かが変わるかって言われたら、変わらないと思う。
普通の日が、また始まるだけ。そんな気がする。

お祭りだから、特別だった。

スマホを取り出した。
LINEを見ると、スタッフたちの笑い声が聞こえてきそうだった。

「今日はありがとうございました」

指が止まった。

そのまま、しばらく画面を眺めていた。
送信はしなかった。

送信したら、今日が終わってしまいそうだったから──

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