
「ここの高台から、よく見えるんですよ」
神社の石段に、ふたり並んで腰を下ろした。
石が、じんわりと肌を冷やす。熱を持った空気の中で、それだけが少し違っていた。
屋台の明かり。人の流れ。
向こうには、やぐらも見える。お囃子の音が、風に乗って遠くから聞こえてくる。
「祭り全体が、生きてるみたいでしょ」
一度そう言って、徹はもう一度、同じ言葉を繰り返した。
「……よく見えるんですよ」
“生きてる”。この人は、こんなふうに受け止めるのね。
麻衣は頷いた。視線の先で揺れている人のうねりが、本当に“生きてる”何かに思えた。
高台から、祭りの会場へと下りていく。
「そこのきれいな奥さん、焼きそば美味いよ!」
屋台のおじさんが、威勢のいい声を投げてきた。
「買いますか?」
麻衣が徹をのぞき込むように尋ねる。
少しの恥じらいを、隠すように。屋台の明かりが髪に落ちていた。
子どもが転んで、大きな声で泣き出す。
「だから手を繋いでって、言ってるでしょぉ」
母親の声が響いた。
麻衣の目に、屋台の明かりが映っている。
その明かりが、少しだけ揺れていた。
人の波にまぎれて歩き出す。
「奥さんだなんて……なんかごめんなさい」
徹がぼそっと謝った。
「今日はお祭りですから」
目を伏せて、口元だけが緩んだ。
人が増えてきた。
すれ違うたびに、肩がぶつかる。
「増えてきましたね」
「私も、転んじゃうかもしれませんよ?」
いたずらっぽく笑う麻衣。
徹は、下を向いたまま歩いていた。
また誰かとぶつかる。
湿ったシャツが背中に貼りつく。
その冷たさに、足が止まりかけた。
何も言わず、麻衣の手を引いた。
二人も黙ったまま、歩き続けた。
繋いだ手から、息遣いが伝わってくる。
通りの隙間に、小さな射的屋があった。
麻衣が、急に立ち止まる。
「……猫ちゃん」
棚の上に、ちいさなぬいぐるみが乗っていた。
「見ててね」
渡された銃を両手で構える。
身を乗り出して、息を止める。
パン、と軽い音。
コルク玉が飛んで、猫のぬいぐるみにかすった。
ぬいぐるみは、ほんの少し揺れただけだった。
「惜しかったなぁ」
笑いながら銃を戻す麻衣。
風鈴のような笑い声だった。
徹は何も言わず、揺れたまま戻らない猫を見ていた。
少し歩いた先に、水風船釣りの屋台があった。
紙の糸と小さな針にぶらさがった水の玉。
風に揺れて、光を跳ね返している。
「これも、いい?」
麻衣が声をかけた。
息を止めて、水面に糸をたらす。
揺れる水風船をつり上げた時、紙の糸が切れた。
「釣れなかった……」
小さく笑って手を離す麻衣に、徹が声をかける。
「……ちょっと待ってて」
今度は、徹が屋台の前に立った。
麻衣と同じように、息を止める。
もう一度大きく息を吸って、そっと、震える指を押さえ込むように。
ゆっくりと。
しばらくして、彼の手の中に小さな水風船があった。
「はい」
手をまっすぐに伸ばす。
「ありがとう」
風が吹いた。
水風船が、しゃぼん玉みたいに揺れた。
「奥さん、わたあめは?」
屋台のお兄さんが声をかけてくる。
麻衣が下を向いた。屋台の明かりで耳が赤く見えた。
「旦那さん、奥さんに買ってやりなよ」
二人で顔を見合わせて、ひとつ、わたあめを買った。
ふわふわで、大きすぎて、どこから食べればいいかわからない。
「はい、あーん」
麻衣が笑いながら、わたあめを差し出す。
その仕草が、冗談とも本気ともつかなくて、徹は少しだけ戸惑った。
けれど、顔を近づけて、小さく口に入れる。
ふっと、甘い気配だけを残して、舌の上で綿菓子が消えた。
それは、触れたと思った瞬間にはもうどこにもなかった。
けれど、甘さだけが、ほんの少しだけ残っていた。
徹は、口の中を確かめるように、静かに息を吐いた。
麻衣は、そんな彼の横顔を見て、何も言わずに歩き出した。
帰り道。麻衣の手には、水風船。
「こんなの、子どもの時以来よ」
先を歩いて、振り向きざまに笑う。
その目には、祭りの明かりが映っていた。
徹は頷いた。目は、しっかりと麻衣を見ていた。
角を曲がる。風が少し涼しくなった。
「じゃあ、私こっちだから」
「あの……」
麻衣が立ち止まる。振り返って、黙って見つめる。
「送ります。危ないから」
「……はい」
笑顔のまま、並んで歩き出す。
なにも言わずに、同じ方を向いて。
ふわっと、二人の背中に風が吹いた。
街灯が、遠くの道をぼんやりと照らしていた。
遠くに、お囃子の笛が聞こえた。
カシャン。
いつものドアの音。
でも、今日はなんだか軽く聞こえた。
靴を脱いで、部屋に上がる。
静かな部屋。
お祭りのあとのせいか、いつもより静けさが染みる。
息を止めて、耳を澄ました。
部屋の音を探すように。
冷蔵庫からペットボトルのお水を取り出して、額に当てた。
目を閉じて、ふーっとひとつ、大きく息を吐く。
キャップをカチッとあけて、ごくごくと飲む。
体の奥のほうに冷たさが広がる。
不思議な時間だった。
何も重さを感じない時間。
誰に会う時でも、いつも何かが重かった。
多分、見られている。そんな重さ。
水風船をしばらく眺めていた。
テーブルの上の水風船は、指で突くと少しだけ揺れた。
もう一度、指で突く。また少し揺れた。
揺れるたび、少しだけ──思い出す。
高台から見えた明かり、人。
聞こえてきた、お囃子。
もう今は聞こえないはずなのに、笛が聞こえてくる気がする。
あと……
「奥さん」て言われて、ちょっと照れた。
中原さんは、何か気まずそうだった。
でも――
嫌だとは思われてないよね?
少しだけ、そこが心配になった。
中原さんが、手を引いてくれた。
大きな手。だけど、無口な人。
なのに、どうしてだろう――
それが、安心できた。
二人とも、あまり喋らなかった。
でも、喋らなくていいと思った。
不思議と、寂しくはなかった。
水風船。
糸が切れて、なかなかうまくいかなかった。
だんだんムキになってきて、
中原さんに見られてるの、ちょっとだけ恥ずかしかった。
笑ってたな、あの人。
水風船を釣り上げた中原さん。
なんだか――らしかった。
すごく、不器用な人なんだろうな。
でも、真剣に物事に向かう人。投げ出さない人。
それを考えていたら、
少しだけ――
見慣れた部屋の景色が、滲んで見えた。
多分、明日から何かが変わるかって言われたら、変わらないと思う。
普通の日が、また始まるだけ。そんな気がする。
お祭りだから、特別だった。
スマホを取り出した。
LINEを見ると、スタッフたちの笑い声が聞こえてきそうだった。
「今日はありがとうございました」
指が止まった。
そのまま、しばらく画面を眺めていた。
送信はしなかった。
送信したら、今日が終わってしまいそうだったから──

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