【麻衣編】第二八話 時間のかかる美味しさ 

《朝の冷たいお茶。
時間をかけて滲み出したその味は、少しだけ背筋を伸ばしてくれる。

職場の熱量に混ざりきれず、足を向けたいつものカフェ。
誰も悪くない、でも、自分の居場所が少しぼやける朝。

焦らなくていい、急がなくていい。
そんな言葉が、ゆっくりと体の中にしみ込んでいく。》


お茶を買ったのは、昨日だったか、一昨日だったか。

朝、グラスに注ぎながら、大きめの独り言。

「猫ちゃん、飲む?」

ぬいぐるみは、いつも通り無口だった。

お茶の袋には、冷茶の淹れ方が書いてあった。
水出し用のティーバッグにお茶っ葉を入れて、冷蔵庫で六時間。

この美味しさには、時間がかかっていたんだなと思う。

今日はみんなにも飲ませてあげたかった。
水筒をいくつか用意して、冷茶を注ぐ。

静かな朝の、少しだけ背筋が伸びる時間。

家を出て、事務所へ。
麻衣と同じタイミングで柚葉も来た。

「おはようございます」

それぞれ仕事に入るのが、もう自然になってきている。

他のスタッフたちも、少しずつ集まり始めていた。
昨夜、グループラインで何か話していたのは知っている。

柚葉のところに自然と人が集まる。
そこに、熱が生まれていた。
助け合いから、それぞれが役割へ。
短期間で人は変わる。

「これがチームワークなのね」

麻衣はそう思いながら、その輪に加わらず、少し離れて見ていた。

上着を取って、軽く羽織る。

「少し、出てくるね」

あの熱量に、どこか自分が混ざりきれていない気がした。
邪魔したくなかった。
きっと、そんな朝もある。

いつものカフェ。
ドアがすっと開いて、軽い音が響く。

店内を見回す。
徹の姿はなかった。

「なーんだ」

声に出してみて、自分が何を期待していたかに気づく。

「ブレンドください」

「ここ最近、お見えになってないみたいですよ」

マスターの言葉に、頷くだけで返す。

当たり前みたいに、それを受け入れた。

コーヒーを飲み終えて、昼すぎに事務所へ戻る。

柚葉がサンプルを二つ差し出す。

「どちらがいいですか?」

よくできてる。迷いなく決める。

「じゃあ、これでお願い」
一つずつ、前に進んでいく。

事務所の空気は変わらず、穏やかだった。
ふと、冷蔵庫に手を伸ばす。

今朝から仕込んでおいた冷茶。

「みんな、ちょっと手を止めて」

麻衣が声をかけると、スタッフたちがちらりと顔を上げた。

「冷茶、よかったらどうぞ。朝から作ってたの」

差し出された紙コップを受け取って、それぞれが一口。

「……あ、これ美味しい」
「やさしい味ですね」

冷たいお茶を手に、少しだけ空気がやわらいだ。

柚葉も一口飲んで、にこっと笑う。

その顔を見て、麻衣は心の中でつぶやいた。

急がなくていい。
焦らなくていい。

ゆっくりでも、ちゃんと前に進めるなら、それが一番いい。

麻衣は、やわらかく声をかける。

「お願いね。任せるわ」

その瞬間、空気が変わるのがわかる。
彼女の言葉が、ちゃんと仲間に届いている。

それが嬉しくて、でも少しだけ、物足りない。
スマホを左手に持って外を眺めた。
木の葉は揺れず、影だけが、濃く、静かに重なっていた。
空気が止まっている気がした。

夕方、事務所を出る。

西日が低く、地面に長い影を落としていた。

通りを歩く、一歩 一歩 。
歩くたびに灰色のアスファルトに、何かが解けていく。
そんな気がした。

少しだけ、足取りが軽くなった。

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