
《朝の冷たいお茶。
時間をかけて滲み出したその味は、少しだけ背筋を伸ばしてくれる。
職場の熱量に混ざりきれず、足を向けたいつものカフェ。
誰も悪くない、でも、自分の居場所が少しぼやける朝。
焦らなくていい、急がなくていい。
そんな言葉が、ゆっくりと体の中にしみ込んでいく。》
お茶を買ったのは、昨日だったか、一昨日だったか。
朝、グラスに注ぎながら、大きめの独り言。
「猫ちゃん、飲む?」
ぬいぐるみは、いつも通り無口だった。
お茶の袋には、冷茶の淹れ方が書いてあった。
水出し用のティーバッグにお茶っ葉を入れて、冷蔵庫で六時間。
この美味しさには、時間がかかっていたんだなと思う。
今日はみんなにも飲ませてあげたかった。
水筒をいくつか用意して、冷茶を注ぐ。
静かな朝の、少しだけ背筋が伸びる時間。
家を出て、事務所へ。
麻衣と同じタイミングで柚葉も来た。
「おはようございます」
それぞれ仕事に入るのが、もう自然になってきている。
他のスタッフたちも、少しずつ集まり始めていた。
昨夜、グループラインで何か話していたのは知っている。
柚葉のところに自然と人が集まる。
そこに、熱が生まれていた。
助け合いから、それぞれが役割へ。
短期間で人は変わる。
「これがチームワークなのね」
麻衣はそう思いながら、その輪に加わらず、少し離れて見ていた。
上着を取って、軽く羽織る。
「少し、出てくるね」
あの熱量に、どこか自分が混ざりきれていない気がした。
邪魔したくなかった。
きっと、そんな朝もある。
いつものカフェ。
ドアがすっと開いて、軽い音が響く。
店内を見回す。
徹の姿はなかった。
「なーんだ」
声に出してみて、自分が何を期待していたかに気づく。
「ブレンドください」
「ここ最近、お見えになってないみたいですよ」
マスターの言葉に、頷くだけで返す。
当たり前みたいに、それを受け入れた。
コーヒーを飲み終えて、昼すぎに事務所へ戻る。
柚葉がサンプルを二つ差し出す。
「どちらがいいですか?」
よくできてる。迷いなく決める。
「じゃあ、これでお願い」
一つずつ、前に進んでいく。
事務所の空気は変わらず、穏やかだった。
ふと、冷蔵庫に手を伸ばす。
今朝から仕込んでおいた冷茶。
「みんな、ちょっと手を止めて」
麻衣が声をかけると、スタッフたちがちらりと顔を上げた。
「冷茶、よかったらどうぞ。朝から作ってたの」
差し出された紙コップを受け取って、それぞれが一口。
「……あ、これ美味しい」
「やさしい味ですね」
冷たいお茶を手に、少しだけ空気がやわらいだ。
柚葉も一口飲んで、にこっと笑う。
その顔を見て、麻衣は心の中でつぶやいた。
急がなくていい。
焦らなくていい。
ゆっくりでも、ちゃんと前に進めるなら、それが一番いい。
麻衣は、やわらかく声をかける。
「お願いね。任せるわ」
その瞬間、空気が変わるのがわかる。
彼女の言葉が、ちゃんと仲間に届いている。
それが嬉しくて、でも少しだけ、物足りない。
スマホを左手に持って外を眺めた。
木の葉は揺れず、影だけが、濃く、静かに重なっていた。
空気が止まっている気がした。
夕方、事務所を出る。
西日が低く、地面に長い影を落としていた。
通りを歩く、一歩 一歩 。
歩くたびに灰色のアスファルトに、何かが解けていく。
そんな気がした。
少しだけ、足取りが軽くなった。

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