
《誰かに任せるのが、こんなに怖くて、嬉しいなんて思わなかった。
静かな午後。風が抜けていくように、麻衣は少しずつ“自分の居場所”を整えていく。
柚葉に託す勇気。和菓子屋で深く息をつけた冷茶の香り。
前回から続く、麻衣の“静かな選択”の物語。》
朝、ふと思った。
柚にやらせてみよう、と。
サブスク型のデザイン相談サービス。
簡易的でもきちんとした「見せ方」を整える手伝い。
全部を一人で抱えるのは無理がある。
そんな、ニッチだけど、確実に人がいる場所。
思い立ったら動き出す。
見切り発車でも、止まらない。
SNSでビフォーアフターを見せられたら、何かが起きるかもしれない。
そう思った。
久しぶりにワクワクする。
体温が二度ぐらい上がった気分。
朝から柚葉と打ち合わせ。
「柚、なんか変わったね」
少し、はにかんだように笑った。
若さだけじゃない。勢いだけでもない。
最近、なんだか可愛らしさが増してきた。
服もすっきりして、髪も黒に戻したらしい。
自信が持てると、女は変わる。ほんとうに。
きっかけはよくわからない。
でもそれでいいと思った。
彼女には今後の方向性を知っておいてほしかった。
誰かと同じ方向を向いて進むこと。
その感覚は、少しだけまだ慣れてない。
“せーの”で、縛ってある右足と左足を同時に出す。
あの、ちょっとだけ難しい感じ。
独立してからは、ずっと一人で歩いてきた。
頼らなかった。頼りたくなった。それを自立と呼んでいた。
「頼ってほしい」と言われたこともあった。
でも、その言葉の奥に何かが透けて見えたから、私はその人を頼らなかった。
結局その人は、私を罵ってどこかへ行ってしまった。
だからなのか、柚葉には少し任せてみようと思った。
今なら、失敗しても取り戻せる。
私にも、会社にも、その体力がある。
若いうちの失敗は、そんなに痛くない。
SNSでバズった。
柚が頑張った結果。
「柚がバズらせた」と言っていい。
誰かの手柄を奪わない。会社を立ち上げた時、自分にそう決めた。
「これはあなたに任せるわ。フォローはするから、好きにやっていいわよ」
柚葉が、少し複雑な顔をした。もっと喜ぶかと思っていた。
「社長、私、ちょっと怖いです……できるかな……」
柚葉でも、そんなふうに思うのね。
可笑しくなって笑ってしまった。
「笑わないでくださいよぉ」
柚葉が困った顔をする。
「ねえ、柚。失敗してちょうだい」
わざと軽く言うと、柚がわからなさそうな顔をする。
それがまた可笑しくて、また笑った。
それにつられたのか「うへへへ」みたいな変な笑い方で、柚も笑った。
「はい、解散!」
答えは言わなかった。意地悪じゃないのよ?
あの子なら、自分でたどり着ける。
その過程を邪魔しないことが、大事だと思った。
柚はそのままの場所で、小さなノートに何かを書きはじめた。
ほらね、この子は大丈夫。
今日は忙しくない。
それぞれが自分のことに向き合っている。
静かな空気のなか、時間がじっくり流れていく。
私も、私のことをやる。
カタカタと静かにキーボードが鳴る。
誰かが紙をめくる音。
気づけば昼を過ぎていた。
「みんな、なにか食べる?」
「ピザー!」
スタッフのひとりが声をあげる。
デリバリーの注文は任せた。
あれがいい、これがいいと、楽しそうな声が響く。
柚は別室で、まだノートに向かっていた。
ブラインドの隙間から窓を開ける。
風がバタバタと音を立てて部屋に入る。
柚葉の髪が、ふわりと揺れた。
綺麗。そう思った。
「お昼にしましょ?」
彼女の顔に、なにかを掴みかけたけれど、まだ掴みきれないような色が浮かんでいた。
午後、柚葉はPCに向かっていた。
何かを形にしている。
私は見なかった。
言葉を挟めば、私の声はノイズになる。
どこまでも広がる思考。
邪魔されたくない。
それは、私も同じだから。
やがて、柚葉がノートを手に、他の子と話し始めた。
ゆっくりと、でも確かにチームが動き出す。
チームワークというより、仲間の助け合い。
夕方。五時。
「今日はおしまい」
私が切り上げなければ、あの子たちは残ってしまう。
熱が入りすぎると、壊れてしまうこともある。
だから、帰らせる。
「しゃちょー……」
「だーめ。帰って、ちゃんと休みなさい」
帰っていく背中を見送った。
仕事が楽しいのは、いいこと。
でも、仕事のために生きてはだめ。
自分が消えてしまうから。
あの子たちには、それを味わわせたくなかった。
電気を消して、鍵をかける。
取っ手を二回、ガタガタとする。
帰ってもよかったけれど、今日は少し違う空気を吸いたかった。
和菓子屋さん、女将さんの顔が、ふと見たくなった。
夏の夕方。
明るくて、でも日が沈みかけていて、何かが始まりそうな空気があった。
背伸びして、はじめて夜に出かけたときの感じ。
少し怖くて、でも胸が高鳴った、あの頃の夜の気配。
そんなことを思いながら、和菓子屋へ向かった。
和菓子屋の前。
ドアが少し開いていて、薄い暖簾が揺れていた。
甘い香りが風に混じっていた。
お茶の匂いも少し混ざって、胸の奥が少しだけ弾んだ。
「こん、ちには」
こんばんはがいいのか、一瞬迷った。
「今日は走ってないのね?」
女将さんが柔らかく迎えてくれた。
ガラス越しに見える棚の上には、蛍光灯の白い明かりが和菓子を照らしていた。
ドアの隙間から差し込む夕陽の残りが、うっすら影を落としている。
「いつもいただくお茶って、売ってますか?」
「ええ、うちはお茶も扱っているんですよ」
女将は大きな木箱の蓋を開けて、中の袋からお茶を小分けにしてくれた。
秤に載せて、少しずつ足していく。
手際よく袋の口を締めて、袋に入れてくれた。
「ちょっと待っててくださいね」
奥から戻ると、お盆の上に小さめのグラスに入った、若い色のお茶があった。
「これからは、冷茶も美味しいんですよ」
水滴のついたグラスのお茶を、一口含む。
お茶の爽やかな香りが広がっていく。
冷たさが、喉を通っていく。
目を閉じた。
やっと、深く息ができた気がした。

コメント