【麻衣編】第二六話 それだけで、良かった

《「後で連絡入れますね」
誰かの期待に応えることが、ずっと自分の“役目”だと思っていた。
でも今は、それだけじゃ動けない。
“誰のために選ぶのか”を、自分で決められるようになった日のこと。》


猫ちゃん、おはよう。
……なんか、ぬいぐるみなのにあったかいね。
さすがに暑いわ。

カーテンを思いきりシャッと開けた。
眩しい。

ミネラルウォーターを飲む。
常温で。
それが体にいいって、どこかで聞いたから。

ぬるい水が口に入る。
美味しくない。
でも、のどが渇いていたから、ごくごく流し込んだ。

大きく息を吸うと、少しさっぱりした気持ちになる。
……でも、次からは冷蔵庫に入れておこうかな。

エアコンは28度がいい。
それも、どこかで聞いた話。
でも、ちょっと無理。
26度に下げた。

いいよね、猫ちゃん。このくらいでも。
やっぱり何も言わないんだね。


事務所で、お昼すぎ。

「こんにちはー!」

暑さを感じさせない、あの爽やかな声。
取材でお世話になった会社の高瀬さん。
多分、営業さん。本人は「何でも屋です」って、明るく笑っていた。

雑誌や広告の件で、たまに足を運んでくれる。

柚葉が、いつになく、少しだけそわそわしていた。
この前も、目を合わせてたっけ。
……意識してるのかもね。

見てないふりをして、ちょっとだけ柚葉を確認した。
可愛く見えた。
そんな柚葉を見て、少し口元が緩んだかもしれない。
慌てて顔を戻す。

「今月の雑誌と、企画の参加のお願いです」
高瀬さんはそう言って、封筒を差し出した。

見出しに、知っている名前が並んでいた。
「夏祭り特集・女性経営者たちと語る地元の未来」

そして、その中に――「早川麻衣」の文字。

少しだけ、目を閉じた。
ほんの一瞬、何かが揺れた。
でも、うまく言葉にはならなかった。

企画書を見ても、特別な感情は湧かなかった。
でも、それは無感動とは少し違う。

名前が出る。呼ばれる。
それはつまり、「見ている誰か」がいるということ。

昔の私だったら――
誰かの期待に、どうにか応えようとして、
少し無理をしてでも、笑って頷いたと思う。

今の私は、もう少しだけ立ち止まれる。
「どうしようか」と、自分に問いかける余裕がある。

もちろん、断ることは、たぶんない。
誰かの期待に応えるため、じゃない。

柚葉や、他の子たちに背中を見せていく。
そう決めているから。

見えない誰かの期待、じゃなくて、
育てたい子たちのためになるかどうか。
今の基準は、そっち。

「後で連絡入れますね」
今は、その返事でいいと思った。


帰宅してから、机の上にあった封筒を開ける。
サラッとした手触り。
湿気を帯びた中の紙は、少し柔らかかった。

自分の名前が、真っ先に目に飛び込んでくる。
知っている名前が並んでいる中で、
それでも、いちばん目に入ったのは――私の名前。

少しだけ、空白を感じた。
どの自分で行ったらいいのか。
今は、まだピンとこない。

こんな企画があります、だったら手を上げていたかもしれない。
でも、参加してくださいと言われてしまった。

ちょっとだけズレた感じ。
自分の中と、外側と。
少しだけ、温度が違う。

参加は、するつもり。
認められたい、じゃない。
……それはもう、いいかなって思ってる。

じゃあ、どんな自分で行けばいい?

立ち上がって、冷蔵庫から冷茶を出した。
コップに注ぐ。
ゆっくり、丁寧に。

コップの中で、細かいお茶の葉が、ふわっと舞った。
それが、綺麗だった。

一口含む。
冷たい。
ピントが合う感じがする、そんな冷たさ。

香りは……今一つかな。
難しいのね。

多分、前の私ならこれでもいいと思えたはず。
だって形はちゃんとできてるから。
今は、そこじゃないって思える。

和菓子屋さんで買っておいた水ようかん。
冷蔵庫に入れるときに、うっかり落としてしまったもの。
少し崩れてる。

スプーンで、一口。
冷たい。
広がる甘さ。

勝手に飲み込まれていく、柔らかな感触。
形じゃないのよね。

冷茶と交互に楽しんで、深呼吸した。

企画書の申込書。
「参加します」に丸をつけた。
そして、静かに、自分の名前を書く。

ゆっくりと時間をかけて出した冷茶。
少し崩れた水ようかん。

それだけで、良かった。

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