
《「後で連絡入れますね」
誰かの期待に応えることが、ずっと自分の“役目”だと思っていた。
でも今は、それだけじゃ動けない。
“誰のために選ぶのか”を、自分で決められるようになった日のこと。》
猫ちゃん、おはよう。
……なんか、ぬいぐるみなのにあったかいね。
さすがに暑いわ。
カーテンを思いきりシャッと開けた。
眩しい。
ミネラルウォーターを飲む。
常温で。
それが体にいいって、どこかで聞いたから。
ぬるい水が口に入る。
美味しくない。
でも、のどが渇いていたから、ごくごく流し込んだ。
大きく息を吸うと、少しさっぱりした気持ちになる。
……でも、次からは冷蔵庫に入れておこうかな。
エアコンは28度がいい。
それも、どこかで聞いた話。
でも、ちょっと無理。
26度に下げた。
いいよね、猫ちゃん。このくらいでも。
やっぱり何も言わないんだね。
事務所で、お昼すぎ。
「こんにちはー!」
暑さを感じさせない、あの爽やかな声。
取材でお世話になった会社の高瀬さん。
多分、営業さん。本人は「何でも屋です」って、明るく笑っていた。
雑誌や広告の件で、たまに足を運んでくれる。
柚葉が、いつになく、少しだけそわそわしていた。
この前も、目を合わせてたっけ。
……意識してるのかもね。
見てないふりをして、ちょっとだけ柚葉を確認した。
可愛く見えた。
そんな柚葉を見て、少し口元が緩んだかもしれない。
慌てて顔を戻す。
「今月の雑誌と、企画の参加のお願いです」
高瀬さんはそう言って、封筒を差し出した。
見出しに、知っている名前が並んでいた。
「夏祭り特集・女性経営者たちと語る地元の未来」
そして、その中に――「早川麻衣」の文字。
少しだけ、目を閉じた。
ほんの一瞬、何かが揺れた。
でも、うまく言葉にはならなかった。
企画書を見ても、特別な感情は湧かなかった。
でも、それは無感動とは少し違う。
名前が出る。呼ばれる。
それはつまり、「見ている誰か」がいるということ。
昔の私だったら――
誰かの期待に、どうにか応えようとして、
少し無理をしてでも、笑って頷いたと思う。
今の私は、もう少しだけ立ち止まれる。
「どうしようか」と、自分に問いかける余裕がある。
もちろん、断ることは、たぶんない。
誰かの期待に応えるため、じゃない。
柚葉や、他の子たちに背中を見せていく。
そう決めているから。
見えない誰かの期待、じゃなくて、
育てたい子たちのためになるかどうか。
今の基準は、そっち。
「後で連絡入れますね」
今は、その返事でいいと思った。
帰宅してから、机の上にあった封筒を開ける。
サラッとした手触り。
湿気を帯びた中の紙は、少し柔らかかった。
自分の名前が、真っ先に目に飛び込んでくる。
知っている名前が並んでいる中で、
それでも、いちばん目に入ったのは――私の名前。
少しだけ、空白を感じた。
どの自分で行ったらいいのか。
今は、まだピンとこない。
こんな企画があります、だったら手を上げていたかもしれない。
でも、参加してくださいと言われてしまった。
ちょっとだけズレた感じ。
自分の中と、外側と。
少しだけ、温度が違う。
参加は、するつもり。
認められたい、じゃない。
……それはもう、いいかなって思ってる。
じゃあ、どんな自分で行けばいい?
立ち上がって、冷蔵庫から冷茶を出した。
コップに注ぐ。
ゆっくり、丁寧に。
コップの中で、細かいお茶の葉が、ふわっと舞った。
それが、綺麗だった。
一口含む。
冷たい。
ピントが合う感じがする、そんな冷たさ。
香りは……今一つかな。
難しいのね。
多分、前の私ならこれでもいいと思えたはず。
だって形はちゃんとできてるから。
今は、そこじゃないって思える。
和菓子屋さんで買っておいた水ようかん。
冷蔵庫に入れるときに、うっかり落としてしまったもの。
少し崩れてる。
スプーンで、一口。
冷たい。
広がる甘さ。
勝手に飲み込まれていく、柔らかな感触。
形じゃないのよね。
冷茶と交互に楽しんで、深呼吸した。
企画書の申込書。
「参加します」に丸をつけた。
そして、静かに、自分の名前を書く。
ゆっくりと時間をかけて出した冷茶。
少し崩れた水ようかん。
それだけで、良かった。

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