【麻衣編】第二四話 ひとつだけ、届いた

《「今日、何したっけ」
「届いたんだ」
そう思えた夜のこと。》


事務所を出るのが遅くなってしまった。
トラブルってわけじゃないけれど、細々したことはいつもつきまとう。

電気を落とすと、室内は一気に暗くなる。
こんなに静かな場所だったっけ。

……肩に、力が入っていた。

鞄を持って、ドアの鍵をかける。ちゃんと閉まったか。
二回、取っ手をガタガタっと回す。

「今日、何したっけ」
一日を思い返してみる。
朝からの流れをざっとなぞって、ちゃんとやるべきことは終えていた。
「うん、大丈夫」
大きめの独り言。誰に聞かせるでもなく。

家に帰りつくと、宅配ボックスに何か届いていた。
通販は頼んでいない。何だろう。

エントランスの静けさが、妙に体に染みた。
観葉植物の葉の先が、少しだけ茶色くなっていた。
エアコンもテレビもつけていない部屋。
静かすぎて、足音が吸い込まれるようだった。

差出人を見る。
ああ、しばらく前に終わったプロジェクトのクライアント。
一度だけ、現場で強く意見がぶつかった人。
たしか、「ここで妥協したら、意味がなくなる」って、言ったんだった。
でも、最後には「お任せします」と言ってくれた。

紙袋を開けると、丁寧な手紙と、焼き菓子の箱。

「本当にありがとうございました。あの時の早川さんの言葉が、心に残っています。」

そんなふうに書かれていた。

誰かに感謝されること自体は、珍しいことじゃない。
たまに、「どうかうちの息子と一度会ってみてほしい」なんてことを言い出す人もいる。

でも、今日のこれは――ちゃんと“届いていた”という感覚があった。
言ったこと。やったこと。
それを、あとになって思い出してもらえたことが、嬉しかった。

手紙とお菓子をテーブルに置いて、湯を沸かす。

カップにお茶を注ぎながら、ふと棚の隅のiPodに目がいった。
実家の片づけで見つけたもの。
今もそこにある。

当時よく聴いていた曲のいくつかの名前は、もう思い出せない。
でも、イヤホンをつけていた頃の自分が、何かを信じていたことだけは、ぼんやりと残っている。

スマホの中には、以前そのiPodを撮った写真が残っている。
なんで撮ったのか、自分でもよく思い出せない。
投稿する理由もなくて、そのまま眠っていた。
でも、届いたという感覚が胸に残っていて、気づいたら、写真を開いていた。

誰でもあると思う。
あのとき、なんでこんな写真を撮ったんだっけ――そんな一枚。
意味も理由もないけれど、消せなかったもの。
それが今、少しだけ、意味を持った気がした。

“何かがちゃんと届いた”と知った今、
その感覚が、胸の奥にじんわりと広がっていく。

“届くかもしれない”と信じていた過去が、
少しだけ、報われた気がした。

あの時の自分が信じていたものも――
もしかしたら、届いていたのかもしれない。

焼き菓子をひとつだけ、小皿に載せる。
香ばしい香りと、温かい湯のみ。
その向こうで、宛名の文字が湯気で少しにじんで見えた。

何かが劇的に、変わるわけじゃない。
毎日にドラマなんて、ない。必要も、ない。
でも、たしかに今日は、ひとつ届いた日だった。

「明日、事務所にお菓子を持っていってあげようかしら」
口に出してみて、ふと考える。
「柚葉、これ好きそうよね」
もう一度、声に出してみる。
少し照れた。誰に聞かせるでもない声だったけれど。

あの子たちの、賑やかな声が聞こえた気がした。

窓の外は、完全に夜の色。

「……ちゃんと、届いてたんだな」

焼き菓子の甘さが、口の中にやさしく広がった。

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