
《「今日、何したっけ」
「届いたんだ」
そう思えた夜のこと。》
事務所を出るのが遅くなってしまった。
トラブルってわけじゃないけれど、細々したことはいつもつきまとう。
電気を落とすと、室内は一気に暗くなる。
こんなに静かな場所だったっけ。
……肩に、力が入っていた。
鞄を持って、ドアの鍵をかける。ちゃんと閉まったか。
二回、取っ手をガタガタっと回す。
「今日、何したっけ」
一日を思い返してみる。
朝からの流れをざっとなぞって、ちゃんとやるべきことは終えていた。
「うん、大丈夫」
大きめの独り言。誰に聞かせるでもなく。
家に帰りつくと、宅配ボックスに何か届いていた。
通販は頼んでいない。何だろう。
エントランスの静けさが、妙に体に染みた。
観葉植物の葉の先が、少しだけ茶色くなっていた。
エアコンもテレビもつけていない部屋。
静かすぎて、足音が吸い込まれるようだった。
差出人を見る。
ああ、しばらく前に終わったプロジェクトのクライアント。
一度だけ、現場で強く意見がぶつかった人。
たしか、「ここで妥協したら、意味がなくなる」って、言ったんだった。
でも、最後には「お任せします」と言ってくれた。
紙袋を開けると、丁寧な手紙と、焼き菓子の箱。
「本当にありがとうございました。あの時の早川さんの言葉が、心に残っています。」
そんなふうに書かれていた。
誰かに感謝されること自体は、珍しいことじゃない。
たまに、「どうかうちの息子と一度会ってみてほしい」なんてことを言い出す人もいる。
でも、今日のこれは――ちゃんと“届いていた”という感覚があった。
言ったこと。やったこと。
それを、あとになって思い出してもらえたことが、嬉しかった。
手紙とお菓子をテーブルに置いて、湯を沸かす。
カップにお茶を注ぎながら、ふと棚の隅のiPodに目がいった。
実家の片づけで見つけたもの。
今もそこにある。
当時よく聴いていた曲のいくつかの名前は、もう思い出せない。
でも、イヤホンをつけていた頃の自分が、何かを信じていたことだけは、ぼんやりと残っている。
スマホの中には、以前そのiPodを撮った写真が残っている。
なんで撮ったのか、自分でもよく思い出せない。
投稿する理由もなくて、そのまま眠っていた。
でも、届いたという感覚が胸に残っていて、気づいたら、写真を開いていた。
誰でもあると思う。
あのとき、なんでこんな写真を撮ったんだっけ――そんな一枚。
意味も理由もないけれど、消せなかったもの。
それが今、少しだけ、意味を持った気がした。
“何かがちゃんと届いた”と知った今、
その感覚が、胸の奥にじんわりと広がっていく。
“届くかもしれない”と信じていた過去が、
少しだけ、報われた気がした。
あの時の自分が信じていたものも――
もしかしたら、届いていたのかもしれない。
焼き菓子をひとつだけ、小皿に載せる。
香ばしい香りと、温かい湯のみ。
その向こうで、宛名の文字が湯気で少しにじんで見えた。
何かが劇的に、変わるわけじゃない。
毎日にドラマなんて、ない。必要も、ない。
でも、たしかに今日は、ひとつ届いた日だった。
「明日、事務所にお菓子を持っていってあげようかしら」
口に出してみて、ふと考える。
「柚葉、これ好きそうよね」
もう一度、声に出してみる。
少し照れた。誰に聞かせるでもない声だったけれど。
あの子たちの、賑やかな声が聞こえた気がした。
窓の外は、完全に夜の色。
「……ちゃんと、届いてたんだな」
焼き菓子の甘さが、口の中にやさしく広がった。

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