
《自分で抱えることが「責任」だと思っていた。
でも、それだけじゃ、誰も育たない。
手放すことは、逃げることじゃない。
信じて任せることも、立派な“しごと”だと思う。》
スーツの袖が、少しきつく感じる朝だった。
熱気のせいなのか、気持ちの問題か。
だけど今日は、頑張ろうと思った。――背中を見せるって、決めたから。
前のめりにはならない。
でも、後ずさりはしない。
今日は出社せず、朝からクライアント先へ直行した。
少し距離のある場所。
電車を降りて歩くと、風が止まったように感じる瞬間があった。
日差しが強くて、首筋に湿った空気がまとわりつく。
手で払いたくなった
「遠いところすみません」
そう言われて、軽く笑う。
打ち合わせは、いい感じでスタートした。
スーツの袖を少し引き直す。
肩まわりが、まだ硬い。
だけど、今日の私には、これがちょうどいい。
クライアントは、“早川麻衣”を求めている。
先生っぽくて、きちんとしていて、安心できる存在。
だから私は、それを着ていく。
Tシャツじゃ、届かない場所がある。
「雑誌、見ましたよー」
例の記事が目の前に広げられる。
視線の端で、それを見ていた。
まばたきが、ゆっくりになった
痛みにはならなかった。
小さく、うなずいた。
「いやー、第一線でご活躍ですねぇ、早川さん」
その言葉に、ひとつだけ息を止めた。
……第一線、か。
昔なら、うれしかったのかもしれない。
でも、今は。どこか違う。少し、遠い。
私は――
談笑のなかで、契約が決まる。
スマホを見ると、事務所から3件の着信。
折り返すと、ちょっとしたトラブルがあったらしい。
クライアントの細かいわがまま。
でも、私に連絡が来る前に、柚葉がすべて処理していた。
スマホを耳に当てたまま、ドア越しに入ってくる外の音を聞いていた。
蝉の声。通りのざわめき。
その奥で、胸の内側が少しざわついた。
――あぁ、これが“調子に乗るな”って気持ちなんだ。
誰かに何かを託した時、その空白に耐えられない。
だから、そういう言葉が生まれる。
いままで分かったふりをしていたけれど、今日は少しだけ深く分かった気がした。
電話を代わって、柚葉に伝える。
「よくやってくれたわ。ありがとう」
それだけを、まっすぐに。
私は、絶対に“調子に乗るな”なんて言わない。
たぶん、若い頃の私だったら――
「しっかりやっておきました」と胸を張ったと思う。
そして、「よくやった」と言ってほしかった。
だから、今の私も、柚葉にちゃんと「よくやった」と言う。
ここで間違ってはいけない。
少しだけ穴が空いたように感じたのは、
何かを“奪われた”からじゃない。
“託した”からだ。
両手が軽い
何もつかんでない
自分の手で、ちゃんと信じて、渡したから。
事務所へ戻る途中、また連絡が入った。
「こっちはもう大丈夫ですから。たまには社長も休んでくださいよ」
そう言ってくれるスタッフたちに、私は恵まれている。
電車を降りた駅の空気が、朝よりも少し涼しかった。
少し歩きたくなって、商店街を抜ける。
夕方の風が、服の裾を揺らす。
いつものお惣菜屋さん。
いい匂い。
でも、楽しみにしていた卵焼きのお弁当は売り切れだった。
「なんだ……」
小さく息をついて、棚を見つめる。
午後の光が反射していた。
なんでもいいか――と思いかけて、
でも、違う。
なんでもいい。
それで流したい時もある。
でもやっぱり、私が自分で決めなくちゃ。
そう思い直して、いろんなおかずが少しずつ入った幕の内弁当を選ぶ。
ちくわの磯辺揚げが入っていて、小さく拳を握った。
そのまま家に帰る。
部屋の空気は、朝と変わっていなかった。
変わったのは、たぶん――私の中。
ほんの少しだけ、欠けたような、開いたような感覚。
それは、“託した場所”の風通しがよくなっただけ。
窓を開ける。
やわらかい風が吹き抜けて、カーテンがふわっと揺れた。
その揺れを見ていた。
大きく息を吸ってソファーに座った。
お弁当は、少し冷めてしまっていたけれど、
いろんな味を楽しめるのも――お弁当の、いいところ、よね。

コメント