
《「足りない」という感覚は、ときに「ある」ことの証なのかもしれません。
手応えがあっても、何かが抜け落ちるような午後。
進んでいくために、振り返らないと決めた日。》
何かが、ひとつだけ足りない。
そう思ったのは、スマホを確認しているときだった。
一日スマホをオフにしていた分、SNSの連絡も、案件の話も、けっこう溜まっていた。
前かがみでスマホを持っている。
その手が、なんとなくしびれている。
あ、と気づいて力を抜く。
親指の付け根に、じんわりとしたしびれが残った。
画面が少し、明るすぎたかもしれない。
少し目の奥が痛む。
実家から戻って、次の日。
少しだけゆっくりしたかったけど、「定時には来てください」と連絡が入っていた。
自分の椅子に座る。
昨日一日、座らなかっただけ。
夏だからなのか、背もたれの蒸れる感じがなんか嫌だった。
別に、何かが起きたわけじゃない。
規則正しさを考えれば、ちょうどよかったのだろう。
柚葉に任せていた仕事は、問題なく進んでいた。
大きなプロジェクトも、一段落している。
バズの余波で、クライアントからの評価も上がったらしい。
「何件か電話も来ている」と。
一つひとつ、メモを確認する。
その中に、新しい案件の依頼もあった。
少し顔を下げて、目だけで周りを見渡す。
なぜかすぐそこにいるスタッフたちが、遠くに感じた。
「バズって、すごいのね」
大きめの独り言。
それが聞こえたのか、柚葉がこっちを見てニコニコしていた。
「ゆず、気持ち良いでしょう」
「はい!」
ゆずのニコニコが溢れすぎて、私までニコニコしてしまう。
笑えるなら大丈夫、なんとなくそう思った。
ゆずも、みんなも、頑張ったものね。
体全部から、嬉しさが溢れている。
なんだか、わかるわ。
私も、初めて大きな結果が出たとき、そんな気持ちだった。
世間では「調子に乗るな」と言われることもあるけれど、波は、いつか止まる。
だからこそ、今は進むとき。
調子に乗れるときに乗らなくて、どうするのよ。
手を握りすぎた。
親指の付け根に、爪が食い込んでいた。
背中を伸ばす。
少しだけ、首の後ろが固まっているのがわかる。
そのまま、ゆっくり深呼吸した。
そろそろ、自分のデザイン事務所の拡大を考え始めた。
拡大といっても、大きくするんじゃない。
この中で、“濃く”したい。
数人、新しく入ってほしい子の心当たりもある。
その中心に、柚葉がいる。
任せるなら、彼女――
でも、早すぎるかもしれない。
迷いもあった。
そのとき、クライアントから紹介された別の企業から、電話が入った。
かなり大きな案件。
金額も、規模も、それまでとは別次元。
“名実ともに認められた”ということ。
ようやく、一段上に上がった。
だけど、何かが胸の中から消えた気がした。
言葉にできない何か。
それは、もしかしたら──
自分が抱え続けていたら、傷んでしまうもの、なのかもしれない。
周りを見たら、広いところに私一人だけ……そんな気がした。
視線の先には、スタッフたちがちゃんといて、声も聞こえる。
でも、自分だけ、少し違う場所に立っている気がした。
同じ空間にいて、少しだけ、ずれている。
いろんなものが、自分の手から離れていく。
仕組みの中に流れ込んで、委ねていく。
“渡せる”というのは、ある種の喜びでもあるけど――
同時に、“もう全部は抱えられない”現実でもある。
手の重さが消えて、すっと何かが抜けていくような。
胸の奥に、うっすらとした冷たさが残る。
エアコンの風のせいかもしれないけど、たぶん、それだけじゃない。
「それも、ありよね」
なんとなく和菓子の味を思い出した。
濃いお茶。甘すぎない餡。確かな味。
あの店は、長くそこにいた。
変わらずに、けれど、変わりながら。
そんな風に続けることが、できるのかもしれない。
視線をあげる。
会議室の入り口で、柚葉が資料を確認していた。
壁に資料を押し付けて、細かく右手のボールペンが動いてる。
真剣な顔。
だけどどこか、楽しそうでもある。
不安とやる気の同居した、あの目。
あの目はいい。
ゆっくりと息を吸って、下唇を軽く噛んだ。
小さく、二回頷く。
任せるのは、自社の仕掛けか、新しいクライアントか――
でも、それはもう、考えることじゃない。
どちらも、「私の仕事」。
どちらを任せるかじゃなくて、誰と一緒に、進んでいくか。
私が、信じた。
育てようと、決めた。
その“気持ち”があるのなら、それでいい。
柚葉は、まだ足りない。
でも、それは“足りない”じゃない。
“ある”ということ。
まだまだ、これから伸びていく。
私も、まだまだ。
見せられるほどの背中じゃない。
それでも、振り返らないことにした。
「ミーティング、始めるわよ!」
声のハリが、気持ちよかった。
私自身が、一番進んでいる気がした。

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