
《聴いたことのあるメロディなのに、曲名だけが思い出せない。
でも、気づいたら口ずさんでいた――
記憶も気持ちも、ぜんぶ曖昧なままなのに、
なぜか今日は、それでいい気がした。》
打ち合わせを終えて、午後からの出社。
車が一台通れるくらいの、細い道。
重なった木々の葉のあいだから、
キラキラと陽の光が差し込んでいた。
風が強くて、時折、顔を背ける。
バッグと、書類の入った取っ手付きのケースが、
風でバタバタと暴れる。
それでも、歩いていて気持ちがいい。
通りに面したアパートの花壇には、
マリーゴールドが咲いていた。
いくつもの花が重なって、それは風に揺れている。
道の両側には、古びたレンガ塀が続いていた。
ところどころ、蔦が絡みついている。
自転車ですれ違ったおばあさんが、
「こんにちは」と優しく笑いかけてくれた。
その顔には深い皺が刻まれていて――
でも、目元がとても柔らかかった。
あんなふうに歳を重ねたいな。
……そのとき、私は誰といるのかな?
もう、辛い思いはしたくない。
でも、誰かといてもいい、かな
この頃自分がうまく操れない、蓋ができない……
アスファルトの割れ目から、
小さな名も知らない緑が、
精一杯にそこに生きていた。
どこからか、ピアノの音が聞こえてくる。
ワルツかな。
いち、に、さん、いち、に、さん。
その音に歩くペースを合わせてみる。
でも、少しだけリズムにズレている。
わたしの歩幅のせいなのかもしれない。
前方のカーブを曲がると、突然、視界が開ける。
大きな通りに出た。
トラックのガラガラという音。
信号のピッピッという音が響いている。
角には、大きな本屋さん。
カフェも入っているみたい。
コーヒーの香りが、ふわっと漂ってきた。
少し休もうかと思って、その店に入る。
ゆっくりと、本の棚を見て回る。
ビジネス雑誌のコーナー。
ふと、足を止める。
今も昔も、似たようなコピーが並んでいた。
私も、これに踊らされていたのよね。
それが悪いとは言わない。
確かに踊らされていたけれど、
そのおかげで、いろんな経験をして、
今こうして経営者として生きている。
あの人も、きっとあの中に憧れていた。
私も、あの人のそんなところに惹かれていた。
あの雑誌の中の誰かに、わたしもあの人もなりたかったんだと思う。
お互いに見ていたのは、誰かに重ねた相手。
うまくいくわけ、なかったのよね。
……もう、終わったこと。
少し笑った。
口元しか笑えなかった。
もしかしたら、あのときも
本当はいらなかったのかもね。
そしたら、あんな思いもしなくて済んだのに…
イートインでコーヒーを頼む。
どうせなら、いつもの店に入りたかった。
そしたら、偶然に会えるかもしれないのに――
そんなことを考えて、
視界の隅にジャケットを探していたのかもしれない。
窓から空を見ると、
さっきまであった雲が、
いつもより早く流れていった。
店を出て、しばらく歩く。
少し汗ばむ。
通りの向こう、
母親に手を引かれた女の子が、
ふわふわのスカートを揺らして歩いていた。
自分にも、あんなふうに
手を引かれていた時があったのかな、と思った。
……さっき、すれ違ったおばあさんも。
きっと、ああやって歩いていた時期があって、
いろんな季節を越えて、今があるんだ。
私も、たぶんその道を歩いているんだろう。
受け取って、育てて、渡していく。
その流れの中で、足を取られながらでも歩いてる。
たくさんの人を見て、出会って、
そして、離れていくんだろうな。
なんだか、今日は
それをちゃんと感じられている気がした。
古着屋の前を通ると、懐かしい曲が聞こえてきた。
「こういう夢ならもう一度逢いたい 春が来るたびあなたに逢える」
もう夏みたいな暑さだけど、
なんか笑いながら涙が出るこの春の歌、好きだったなあって思い出した。
今も、きっと、好きなんだと思う。
……なんだっけ、曲名が出てこない。
スマホには手を伸ばさなかった。
調べてしまうのは、なんか違う気がして。
歩きながら、そのフレーズを、
小さく口ずさんでいた。
事務所に着いた。
「おかえりなさい!」
スタッフの声。
いつもの空気が、そこにあった。
柚葉が、冷たいお茶を持ってきてくれる。
その冷たさが喉を通っていく気持ちよさを味わって、
深く息を吸い込んだ。
意識していたわけじゃなかった。
「こういう夢ならもう一度逢いたい」
さっき聞いたフレーズを、
小さな声で繰り返していた。
「社長、なにかいいことありましたか?」
柚葉と目が合った。
お互いに、微笑みかける。
窓の外を見上げた。
空には、雲はなかった。
綺麗すぎる 空を見て、これでいいんだって自分に言い聞かせていた。

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