
《パッとしない。
ううん、そんなことは、ない。
ただ――私の中で、何かが噛み合わない。》
今日は打ち合わせ。
柚葉を連れていく。
そろそろ、この先のことも考えないと。
移動中の車内、柚葉は黙って資料を確認し、
商談直前には私に一式を手渡してくれた。
慣れた手つきだった。
私が言うより先に、必要なものを見抜いている。
思わず一瞬、彼女の横顔を見る。
まっすぐで、静かで、揺れていない。
カツカツと響く足音が、今日はやけに耳に障る。
先方に着く。
変わらず、無茶を言うクライアント。
今日も、容赦のない値引き要求。
ここは、私が駆け出しの頃に先代の社長にお世話になった取引先だ。
でも、この現社長は――。
「……その子が、アシスタント?」
軽く笑うその口調。
「見た目はいいじゃない。それで仕事取ってるの?」
柚葉の表情が曇る。
もう、いい。
私の中で何かが切れた。
次の瞬間、私は静かに、口を開いていた。
「値引きの件だけならまだわかります。それは仕事上必要ですから。
ですが、人を侮辱して笑っているような方とは、今後はお取引できません。失礼いたします。」
声は落ち着いていた。
でも、言葉は尖っていた。
空気が張りつめる。
そして私は、手元の資料を閉じ、立ち上がって――
バシン、とテーブルを叩いた。
手が痛い。
慣れていない痛み…
音が、少し遅れて聞こえた気がした。
何かが割れたのは、私の中だったのか、あの部屋だったのか――
おろおろとする現社長を置いて、帰る。
小走りでついてくる柚葉。
その音だけが、背中に追いかけてくる。
「……やっちゃったね」
空を見上げて、麻衣は笑った。
わざと明るく、いつも通りの調子で。
わざとじゃないかもしれない。
どこか、すっきりした気分がある。
でも、踏み出したその一歩にだけ、
静かな力が宿っていた。
「大丈夫なんですか……?」
柚葉の目に、涙がにじんでいる。
大丈夫よ。私は、耐えられる。
何を言われても。
でも――柚が、何か言われるのは。
……それだけは、どうしても我慢できなかった。
事務所には戻らず、そのまま柚葉と食事へ向かう。
個室のある静かな店。
今日は、ちゃんと食べるって決めたの。
「昔はもっと、好き勝手やってたのよ」
私は笑いながら話す。
企画通すために直談判して、
飲み会で潰れて、翌朝に頭抱えて――
何かに憧れて、何かを信じて、走ってた。
でも、いつからか、憧れた“型”に自分を押し込もうとしていた。
「これからも、あなたを育てるからね」
私は、目の前の柚葉を見た。
「あなたは、私の右腕になるんだから」
その言葉に、柚葉は大泣きした。
顔をくしゃくしゃにして、泣きながら、何度もうなずいた。
私も、泣いていた。
翌日。
朝一番で来客の報告が入った。
昨日の現社長と、なんと――先代社長が訪ねてきていた。
応接室に入る。
先代が深く頭を下げる。
「昨日のこと、聞きました。
経理の古株からも、他の社員からも。
申し訳なかった、このバカが…」
その声に、胸がいっぱいになる。
彼は言った。
自分が現場に戻る、と。
そして、社長には一から学び直させると。
失礼なことを言った人とは別人のように小さくなった社長さん……
たぶん、この人も、悪い人ではないのかもしれない。
立場や肩書で、人はおかしくなる。
自分を大きく見せようとしたり、理想の形になろうとしたり……
「あなたも……本物の経営者になってきましたね」
私は、泣きそうになった。
でも、泣かなかった。
彼らが帰ったあと、柚葉が不安そうにこちらを見る。
私は、笑って見せた。
そして、柚葉の耳もとで、そっとささやいた。
「右腕、でしょ?」
柚葉は、泣きながら笑った。
「はい」
「お先に失礼します!」
柚葉は明るい声で、少し背伸びするように笑った。
「お疲れさま! 明日もお願いね!」
麻衣も笑顔で返す。
帰り道。
いつもより、靴の音が響く。
薄明るい空。
こんなに日が伸びていたのね。
前を通り過ぎる学生たちが、自転車に乗って笑い声をあげている。
私は少し遠回りして、商店街に向かった。
いつものお惣菜屋さん。
お弁当を選ぶ。
ガラス越しに並んでいるお弁当が、夕陽を反射していた。
今日も、好きな卵焼きが入っているものを選んだ。
ビニール袋を指にかける。
お弁当のぬくもりが、少しだけ伝わってくる。
いい匂い。
夕方の人混み。
疲れた顔の会社員と、楽しそうな学生たち。
みんな、今日も一日お疲れさま。
そんな気持ちが、夕日と一緒に静かに降りてきた。
家に着く。
鍵を回して中へ入る。
カシャン
猫のぬいぐるみが、こちらを見ていた。
上着を脱いで、ふと、そのぬいぐるみを抱きしめる。
「よかったー。もう取り引きできないかと思った」
口から出ていた。
猫ちゃんに話しかけるように。
「私は、柚を守りたかったんだよ」
「でもね、ちょっとだけ……手、震えてたんだよ。ほんの少しだけね」
「麻衣は、頑張ったのよ?」
猫ちゃんは、何も言わない。
あの時は“麻衣”だった。
無茶をして、ただ憧れに向かっていただけの麻衣。
少し懐かしい感じだった。
自立した…そんな型に押し込めていたままだったら、
あの場も上手く流せただろう。
でも、それはできなかった。
したくなかった。
この頃の私、何か変よね。
でもね――嫌いじゃないの。
嫌いじゃないけど、大丈夫なのか、な。
猫ちゃんは、相変わらず何も言わない。
でも、今夜は――それが、少しだけ嬉しかった。

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