【麻衣編】第十七話 噛み合わないまま、それでも私は進んだ

《パッとしない。
ううん、そんなことは、ない。

ただ――私の中で、何かが噛み合わない。》


今日は打ち合わせ。
柚葉を連れていく。

そろそろ、この先のことも考えないと。

 

移動中の車内、柚葉は黙って資料を確認し、
商談直前には私に一式を手渡してくれた。

慣れた手つきだった。
私が言うより先に、必要なものを見抜いている。

思わず一瞬、彼女の横顔を見る。
まっすぐで、静かで、揺れていない。

 

カツカツと響く足音が、今日はやけに耳に障る。
先方に着く。

 

変わらず、無茶を言うクライアント。
今日も、容赦のない値引き要求。

ここは、私が駆け出しの頃に先代の社長にお世話になった取引先だ。

でも、この現社長は――。

 

「……その子が、アシスタント?」
軽く笑うその口調。
「見た目はいいじゃない。それで仕事取ってるの?」

 

柚葉の表情が曇る。

もう、いい。

私の中で何かが切れた。

 

次の瞬間、私は静かに、口を開いていた。

 

「値引きの件だけならまだわかります。それは仕事上必要ですから。
ですが、人を侮辱して笑っているような方とは、今後はお取引できません。失礼いたします。」

 

声は落ち着いていた。
でも、言葉は尖っていた。

 

空気が張りつめる。
そして私は、手元の資料を閉じ、立ち上がって――

バシン、とテーブルを叩いた。

手が痛い。
慣れていない痛み…

 

音が、少し遅れて聞こえた気がした。
何かが割れたのは、私の中だったのか、あの部屋だったのか――

 

おろおろとする現社長を置いて、帰る。
小走りでついてくる柚葉。

その音だけが、背中に追いかけてくる。

 

「……やっちゃったね」

空を見上げて、麻衣は笑った。
わざと明るく、いつも通りの調子で。

 

わざとじゃないかもしれない。
どこか、すっきりした気分がある。

 

でも、踏み出したその一歩にだけ、
静かな力が宿っていた。

 

「大丈夫なんですか……?」
柚葉の目に、涙がにじんでいる。

 

大丈夫よ。私は、耐えられる。
何を言われても。

でも――柚が、何か言われるのは。
……それだけは、どうしても我慢できなかった。

 

事務所には戻らず、そのまま柚葉と食事へ向かう。
個室のある静かな店。

今日は、ちゃんと食べるって決めたの。

 

「昔はもっと、好き勝手やってたのよ」
私は笑いながら話す。

企画通すために直談判して、
飲み会で潰れて、翌朝に頭抱えて――

何かに憧れて、何かを信じて、走ってた。

でも、いつからか、憧れた“型”に自分を押し込もうとしていた。

 

「これからも、あなたを育てるからね」
私は、目の前の柚葉を見た。

「あなたは、私の右腕になるんだから」

 

その言葉に、柚葉は大泣きした。
顔をくしゃくしゃにして、泣きながら、何度もうなずいた。

私も、泣いていた。

 

翌日。
朝一番で来客の報告が入った。

昨日の現社長と、なんと――先代社長が訪ねてきていた。

 

応接室に入る。
先代が深く頭を下げる。

 

「昨日のこと、聞きました。
経理の古株からも、他の社員からも。
申し訳なかった、このバカが…」

 

その声に、胸がいっぱいになる。

 

彼は言った。
自分が現場に戻る、と。

そして、社長には一から学び直させると。

 

失礼なことを言った人とは別人のように小さくなった社長さん……
たぶん、この人も、悪い人ではないのかもしれない。

立場や肩書で、人はおかしくなる。
自分を大きく見せようとしたり、理想の形になろうとしたり……

 

「あなたも……本物の経営者になってきましたね」

私は、泣きそうになった。
でも、泣かなかった。

 

彼らが帰ったあと、柚葉が不安そうにこちらを見る。

 

私は、笑って見せた。

そして、柚葉の耳もとで、そっとささやいた。

 

「右腕、でしょ?」

 

柚葉は、泣きながら笑った。
「はい」

 


「お先に失礼します!」
柚葉は明るい声で、少し背伸びするように笑った。

 

「お疲れさま! 明日もお願いね!」
麻衣も笑顔で返す。

 

帰り道。
いつもより、靴の音が響く。

薄明るい空。
こんなに日が伸びていたのね。

 

前を通り過ぎる学生たちが、自転車に乗って笑い声をあげている。
私は少し遠回りして、商店街に向かった。

 

いつものお惣菜屋さん。
お弁当を選ぶ。

ガラス越しに並んでいるお弁当が、夕陽を反射していた。
今日も、好きな卵焼きが入っているものを選んだ。

 

ビニール袋を指にかける。
お弁当のぬくもりが、少しだけ伝わってくる。
いい匂い。

 

夕方の人混み。
疲れた顔の会社員と、楽しそうな学生たち。

 

みんな、今日も一日お疲れさま。

そんな気持ちが、夕日と一緒に静かに降りてきた。

 

家に着く。
鍵を回して中へ入る。

 

カシャン

 

猫のぬいぐるみが、こちらを見ていた。
上着を脱いで、ふと、そのぬいぐるみを抱きしめる。

 

「よかったー。もう取り引きできないかと思った」

口から出ていた。
猫ちゃんに話しかけるように。

 

「私は、柚を守りたかったんだよ」
「でもね、ちょっとだけ……手、震えてたんだよ。ほんの少しだけね」
「麻衣は、頑張ったのよ?」

 

猫ちゃんは、何も言わない。

 

あの時は“麻衣”だった。
無茶をして、ただ憧れに向かっていただけの麻衣。
少し懐かしい感じだった。

自立した…そんな型に押し込めていたままだったら、
あの場も上手く流せただろう。

でも、それはできなかった。
したくなかった。

 

この頃の私、何か変よね。
でもね――嫌いじゃないの。

嫌いじゃないけど、大丈夫なのか、な。

 

猫ちゃんは、相変わらず何も言わない。

でも、今夜は――それが、少しだけ嬉しかった。

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