【麻衣編】第十六話 見なかったことにする

《その空気の中に、何かがひっそり通りすぎていった気がした。
きっと、気のせいだと思うけれど。》


午後二時すぎ。

蒸し暑いのに、エアコン点検の業者さんが入ったらしくて
急遽買ってきたレトロデザインの扇風機が空しく回っている。

スタッフの子が、扇風機に向かって
「あーーーー」と言っていた。
それを見ながら、ほかの子たちが笑っている。

やったよね、子供の時に。
ああいうの。

とにかく、暑い。
汗が流れて、髪の毛が首筋についてしまう。

今日はそんなに忙しい仕事もなくて、
事務所の空気はのんびりしていた。

うちのスタッフたちは、真面目だけど、
必要以上にピリピリしない。
こういう何気ない雑談の時間も、
わたしたちの大事な仕事のうち。

柚葉が、何かいじられている。

「また“先回りしすぎ”って言われました〜」
なんて笑いながら、別のスタッフと話してる。

笑いながら机に伏せる時、
その目が一瞬、笑っていなかった。
柚葉なりに、いろいろ考えているのかもしれない。

 

そこへ。

「こんにちはー! 先日の雑誌をお届けに上がりました!」

ドアの向こうから、妙に爽やかな声が響く。

高瀬凪くん。
営業さんらしく、黒い紙袋をしっかり両手で抱えて立っていた。

ドアを開ける。

一瞬だけ風が通り抜けて、
その風もすぐに、ぬるい風に変わった。

「あ、高瀬さん。こちら、預かりますね」

柚葉がすっと紙袋を受け取る。

その瞬間、二人が目を合わせて、
小さくうなずいたような気がしたけれど――

気のせい、かしら。

……見なかったことにする。

 

「掲載ページ、こちらです」

高瀬くんが丁寧に雑誌を開いて見せると、
柚葉がすぐ隣に立って、それを覗き込む。

他のスタッフたちも、ぞろぞろ集まってきて、ワイワイガヤガヤ。

「ちょっと、私がまだ見てないんですけど?」

声を低くして、冗談ぽく言ってみると、
みんなが一斉に笑った。

高瀬くんはぺこりと頭を下げて、
「では、私はこれで」と丁寧に事務所を後にした。

 

「社長、これ……」

柚葉が紙袋を持ってくる。ずっしり重そう。

「配るかなと思いまして」って、たしか高瀬くんが言ってた。

……あの子も、周りを見るタイプなのね。
営業さんかしら。

 

中原さんが言っていた“後輩くん”が、
もしあの子なら――

そうだったら、ちょっといいのに。

でも、違うかもしれない。
女の子かもしれない。

……それを想像しただけで、
部屋の中の空気とは違う何かが、少しだけ渦を巻いた気がした。

 

「社長、一冊頂いてもいいですか?」

「ええ、いいわよ」

それを聞いてまた、スタッフたちがワイワイ。

「社長、綺麗〜」
「“できる女”って感じですよね」
「でも、もっと緩い社長も見てみたいな〜」

「じゃあ、もっとだらしない格好で来ようかしら」

またみんなが笑う。
わたしも、つられて笑う。
少しだけ、肩の力が抜けた。


夕方、家に帰ってから母に電話をする。

「うん、雑誌……送るから。
うん。そう、載ってるの。……うん、うん、大丈夫。ありがとう」

受話器を置いて、ベッドに倒れ込む。

開いた雑誌の匂い。
光沢のある紙が、少しまぶしい。

ページの中。
そこには「いつものわたし」とはちょっと違う、
もうひとりの“麻衣”がいた。

写真の自分は、たしかに「よくできた誰か」に見えた。
表情も、姿勢も、整っていて。
なにもかも、“完璧”っぽい。

でも、思い出す。
あの日、カフェで中原さんと話していたこと。

あの人は、わたしをどう見ていたんだろう。

記事の中の言葉は、飾り立てているわけでも、
持ち上げているわけでもなくて――

不思議と、ちゃんと“見てくれている”気がした。

 

本当の私を知っていてくれているかもしれない。
それが、嬉しいような、寂しいような、少しだけ怖い気もする。

ゆっくりと目を閉じ、
ひとつ、深く息を吸い込んだ。

 

それから――

「こんにちは、私は……麻衣さんです」
「あなたは……」

 

そんなふうに言ってみたら、
どんな返事が返ってくるんだろう。

名乗ることと、誰かに見られること。
それはいつも、ちょっとだけ寂しくて、怖くて
でもどこか、温かい。

 

窓の外、車の音が遠くから聞こえてきた。

雑誌をめくる時の反射に、
少しだけ、目を細めた。

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