
《お気に入りの傘があるのに、
いつも買ってしまう透明なビニール傘。
可愛いと思ったものを、大事にしすぎて、
結局、使えないまま置き去りにしてしまうことって、ありませんか?》
カフェに行った日から、
何かを探しているような気がしている。
あの楽しさは、なんだったんだろう?
自分でも、不思議な感覚だった。
いつもの「気合を入れた自分」
自立して、頑張って、ちゃんとして。
それが、一瞬なくなった気がした。
そんなことを考えながら、歩いていた。
湿気がまとわりつく。
空気が重たい。
ポツポツと雨が降り始めて、
いつもの橋の手前にあるコンビニに駆け込んだ。
買ったのは、ビニール傘。
なんか、いつも間に合わせ。
お気に入りの可愛い傘は家にある。
気に入って、欲しくて買ったのに、
可愛いから、なぜか使えないまま。
そして、いつもビニール傘を買ってる。
あの傘、いつ買ったんだっけ。
たしか、誰かと約束していた日のために選んだ、
ピンクに近いベージュに、小さなお花が描いてある傘。
開いたことは……たぶん、一度もない。
玄関の傘立ての裏側。
隅に一本だけ。そこに置きっぱなし。
お気に入りの傘の存在を、普段は忘れている。
ビニールの傘は、前も見えるし、不満はない。
でも、間に合わせ。
間に合わせの傘から透けて見えている私は、
間に合わせなのかな?
……それって、なんか、もやっとする。
本当はどうしたい?
本当の私は?
本当の私は、この傘の下にいない。
背後から、大きな音楽をかけた車が近づいてきた。
「わたーらせ ばーしの」
この曲、懐かしい。
友達とカラオケで歌ったよね。
音を外しても笑ってた。
何も言わなくても「だよねー」って笑いあえた。
あの頃の私、多分、考え事をしながらなんて、歩いてなかった。
あの頃の私は、自分のこと好きだったのかな?
そんなことを考えて、分からなくなって、考えるのをやめた。
背後から聞こえたその曲に、何気なく振り返った。
真っ白な、低い車。
ライトが閉じたり開いたりする、懐かしいかたち。
それを見た瞬間、
あっ…って、声にならない声が出た。
忘れていた“あの頃の私”が、
袖を掴んで立っていた気がした。
――先輩が乗っていた、デート専用の車。
「名前なんだっけ? 麻衣、車、苦手〜!」
心のなかでつぶやいた。
あの時に言った言葉。
それが少しおかしくて寂しくて、なんか笑ってしまった。
視界が滲んでいく。
雨でよかったと思った。
私、自分のこと「麻衣」って呼んでた。
ちょっと痛い子?だった。
でも、それが許されていた。
明るくて、人気もあって、
通知表には「落ち着きましょう」って書かれた。
バイト先で「麻衣は、」って言って先輩たちに笑われた。
すごく恥ずかしくて、泣きながら帰った。
あの時、自分を丸ごと否定されたみたいで。
そして私は、「できる女」「自立した女」みたいな言葉に憧れた。
初めてビジネス雑誌を買った。
こんなにすごい人たちがいるんだ、って驚いて、
世界が一気に広がった気がした。
そして私は、自分で「麻衣」を無視した。
置き去りにした。
丸ごと否定したのは自分だったのかもしれない。
雑誌の中の人に憧れて、
スーツを着て、背筋を伸ばして、笑顔を作った。
可愛い系の化粧もやめた。
そして、道半ばで、その世界の人と恋に落ちた。
結婚して、そして、離婚して…
いろいろあったけど――
「麻衣」は、ずっとあそこに置き去りのまま、だったかもしれない。
そして今、私が、立ち尽くしていた。
雨が強くなってきた。
ビニール傘に流れる、たくさんの雨粒。
街の音が消えて、雨だけが残る。
傘も役に立たない。
腕が濡れる。
冷たさが広がる。
でも、その冷たさが「今」を教えてくれる。
……なぜか、それが嫌じゃなかった。
そのまま、いつもの橋を渡って商店街へ。
人がたくさんいる。
濡れて不機嫌そうな人。
スマホに夢中な人。
ベビーカーを押して疲れた顔の人。
私は、アーケードに響く雨音を聞きながら、
橋のほうを見ていた。
耳に残る「渡良瀬橋」のメロディ。
もう、白い車はいなかった。
ドラマなら、こんな時に友達と偶然出会ったり、
ぶつかって恋が始まったりするんだろうな。
……でも、そんな劇的な運命なんて、ない。
それでいいの。
この美味しそうな匂いも、現実だし。
私は、商店街のお惣菜屋さんの前にいた。
「おばちゃん、コロッケ2つ!」
高校生くらいの男の子の声。
小さなコロッケの袋を手にして、
女の子に渡して、二人で食べていた。
つられて、私もコロッケを買っていた。
……これが、現実よね。
今日、抱えていた不安や違和感は、消えていた。
コロッケの温かな包みをバッグに入れて、
アーケードの切れ目まで歩いた。
先の方では雲が切れていて、そこからまっすぐに日が差していた。
帰ったら、麻衣の好きだったコンポタ、飲もうかしら…
ビニール傘をさして、帰り道を歩いた。

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