
《風が、少しだけ気持ちよかった。
カフェで久しぶりに話した。
“いつも”を少しだけ踏み出しただけなのに、
見える景色が、ちょっとだけ変わっていた。》
シャツと肌のあいだに湿った空気が入り込む。
それが暑かったのか、暑くなかったのか。
首筋にエアコンの風が当たると、ひやっとした。
動くたびに、自分が自分じゃないような気がする。
こういう日は、気分がいつもより半歩、後ろを歩いてる。
今朝は軽めの打ち合わせがあった。
うちのスタッフは本当に優秀で助かる。
指示も全部、先回りしてくれてたり。
特にあの子。いつも私をいじってくる、あの子。
今では本当に頼もしいリーダーに育ってくれた。
安心して、少しだけ外に出られる。
「ちょっと出てくるわね!」
外の音が溢れている。
ヒューン。郵便屋さんが、音だけを残して走り去った。
昔みたいに「ブロロロ」じゃなくて、今は電気なのね。
風も吹いている。ちょっと湿ってるけど、なんか……気持ちいい。
歩いて、いつものカフェへ。
ちょっと間が空いちゃったけどね。
少しだけ早歩きになっていたかもしれない。
期待してないわけじゃない。
私をわかってくれるかもしれない。
でもね、好きとか、そんなんじゃないの。そう思う。
私はなんで、言い訳みたいなこと言ってるんだろう…
お店に近づくと、ちょっと帰りたくなる。
なんで? 分からない。
お店のドアが、少しだけ重い。
お店の前は午前中の陽ざしで、静かだけど、少しだけあたたかい。
通りの向こうから、パン屋さんの香りも流れてくる。
こんな時間に来たのは、いつぶりだろう?
カラーン。
中に入る。
中は思ったより静かで、空気がひんやりしている。
あの人の“いつもの席”には……いない。
あ、カウンター! なんで? いつもの席じゃないんだろ?
そんなことを考えたら、変なドキドキが消えた。
勇気を出して、肩を叩く。
私って、こんなこともできるんだぁ。
少し楽しくなった。
先日のお礼は丁寧に。
だって、自立してる、ううん、違う。
なんか嫌われたくないじゃない?
だから、丁寧に。
「横、いいですか」
またドキドキしてきた。
これは多分、いつもと違う冒険だから。
「マスター、一番安いやつ」
マスターが、少しだけ固まった。
でもすぐに、「一番安いブレンドですね」と微笑んでくれた。
中原さんも、固まってた。
でもね、これってね……
……まぁいいか。
私もちょっと、言ってから照れた。
なにこれ、ちょっと楽しいかも。
“いつも”から少し出たら、景色が違う。
マスターって、こんな感じの人だったんだ。
「ブレンドでございます」
湯気にのって、柔らかな香りがふわっと届く。
「いい香り」
自然と声に出していた。
出されたコーヒーを一口。
「にがい」
「ここのは苦いんですよ」
中原さんが、声をかけてくれた。
ちょっと嬉しいかも。
いいよね、こんな会話って。
後輩さんの話をしてくれた。
仲良さそう。
後輩さんは男の人? 女の人?
気になった。
私も、お気に入りのスタッフの話ができた。
中原さんは時々、少しだけ口元を緩めて、静かに頷いていた。
私のことも話したくなっていたけど、流れで原稿の話になった。
そう、理想の私が印刷されてる原稿。
呼吸がほんの少しだけ、浅くなった。
あそこにいる私は、本当の私なの?
またあのモヤモヤした気持ちが湧き上がってる。
「……あれが私なのか、分からないんです」
何で言ったのか、わからなかった。
慌てて席を立つ。
「ごちそうさま」
外へ出る。
私をわかって、なんて言えるわけないよね。
ほんと、ここのコーヒーは苦いわね。
まだ気持ちが落ち着かないまま、オフィスに戻ったら——
「社長、いいことありました?」
いつものスタッフの子が声をかけてきた。
なんで? コーヒー飲んできただけよ?
「なんかぁ(ニヤニヤ)社長ってかっこいいんですよ、私の憧れですから。
でも今日は社長って言うより、麻衣さん!って感じなんです」
この子は本当にいい子なの。
そして、空気も読めるから、仕事を任せても安心なの。
本当にね、読まなくていいことも読むのよ(苦笑い)
麻衣さん!って、それどんな顔よ(笑)
気になったから聞いた。
「乙女みたいな?」
あなたねぇ(笑)
「私、入金してきますね!」
上手く逃げられた。
笑われたような、励まされたような気持ちを抱えたまま、帰宅した。
部屋に帰ると、猫ちゃんが待っていてくれた。
とは言っても、ぬいぐるみの相棒。
私の中のイマジナリーフレンドみたいなもの。
たまに声が聞こえる気がする、仲良し。
ぬいぐるみを抱える。
柔らかくて、少しだけひんやりした、もこもこの感触。
「こんばんは、麻衣さんです」
猫ちゃんは……無視……だよね。
何か言ってよ、猫ちゃん

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