【麻衣編】第十二話 言葉を浴びすぎた日

《今日は一日、言いたいことが言えなかった。》


朝はまだ、ひんやりとした空気だった。
寒いってほどじゃないけど、何か一枚、羽織りたくなる。

街の音にも、午前中らしい余裕と慌ただしさがあって、少し活気がある。

今日は、朝から調子がよかった。
顔色も悪くないし、事務所に着いたときには、すでに何人かのスタッフがいて。
挨拶の声や笑い声が聞こえていて、楽しそうだった。

午後からは、新しい広告デザインの提案で打ち合わせがある。
相手は、以前からのクライアント。信頼もされてる。
だからこそ、ちゃんとした仕事をしたい、と思った。

服装には、少し迷った。
きちんと見えるけれど、堅苦しくない。
それでいて動きやすい。

トーンは落ち着かせて、足元はヒールじゃなくてローファー。

「気合い入ってます感」は出さずに、でも「ちゃんとしてる感じ」は必要。
このバランス、地味にいつも悩む。

見え方ですべてが決まるわけじゃない。
でも、見せ方で全部が決まってしまうこともある。
私は、それを何度も体験してきた。だから、気を抜けない。

少し早めに事務所を出た。
歩くときは、背筋を意識する。

前に、歩き方の講座に行ったことがある。
「地面をしっかり蹴ること」
――それだけで、見え方が全然変わるらしい。

オフィスビルのガラスに写る姿を横目で確認する。
颯爽と歩く感じ。自分でも、けっこう気に入っている。
たぶん、“ちゃんとしてる自分”になれている気がするから、かもしれない。

……つまり私は、いつも人からの見え方を、気にしているのね。

でも、通りに出たときだけは、少しゆっくり歩いた。
周りに合わせる。

街路樹の葉が、ついこの前までは黄緑色だったのに、今は濃い緑色になっている。
車の音。バスの低い音――嫌いじゃない。
信号機の、あの高い電子音は、少し刺さる。苦手。

赤信号で立ち止まる。
向こう側に、ひとつの人影が見えた。

よれたジャケット。重たそうな足取り。
顔を上げきらないまま、どこか、だるそうで。

――すぐに分かった。中原さんだ。

言葉が浮かんだけど、動けなかった。
こちらを見た……ような気がした。
でも確かじゃない。
目が合ったのか、そう思いたかっただけなのか。

彼は、少し向こうを向いたまま歩き出した。
そのまま、通りの反対側を、進んでいく。

信号が青に変わった。
私も、歩き出す。

でも、さっきまでと違う足取り。
少し不自然で、ほんの少しだけ、重い。

前に進んでいるのに、
どこか、身体が後ろに引っ張られているような感覚。

声をかければよかったのかもしれない。
名前を呼ぶのは躊躇したけど、手を振るくらいなら――
……でも、できなかった。

理由は、よくわからない。
意識しすぎたのか。
本当は何も考えたくなかったのか。

気まずいわけでも、嫌っているわけでもない。
ただ、言葉が出なかった。

背中を見送ったわけじゃない。
でも、視界の端で、彼が少しずつ遠ざかっていくのを感じた。
振り返らず、真っ直ぐに歩いた。

歩幅に、心が少し遅れる。

雑踏の中にまぎれていく音。
信号を渡った先の横断歩道。
人々が、次々と交差していく。

気づいていたと思う。
私も。彼も。
でも、お互いに、気づいてないふりをした。

少し立ち止まれば。
信号を渡れば。
すぐに、話せたのかもしれない。

でも――
今はまだ、その距離が必要なの。たぶん。
それが分かってるから。今は、まだ……。

ビルの入口に着く。
気持ちを切り替えようとした。
でも、これは、後悔なのかな……

認めたらいけない気がして――
気づかないふりをした。

言いかけて、言わなかったときにだけ残る、あの感覚。

背筋を伸ばして、肩を開いて、地面を蹴る。
歩く。ちゃんと前に進んでる。
でも、今日はなぜか、進んでる気がしなかった。


クライアントとの打ち合わせが始まった。
いつもの担当者。とにかく、よく話す人。

私が何か言おうとすると、かぶせるように話し始める。
自分のテンションのまま、関係のない話までどんどん続ける。

最近読んだ本の話。
休日に行ったカフェ。
子どもの学校のこと――

たぶん、本人の中では全部“つながってる”んだろう。
でも、私には、その線が見えなかった。

ようやく話が途切れたかと思って、
「それでは、今回の件の方向性についてですが――」
と話し始めた途端、また別の話をかぶせてくる。

そういうやりとりが、今日だけで何度もあった。

慣れているはずなのに、疲れる。

言葉って、ただ出せばいいものじゃない。
多すぎるほど本音が遠ざかることもあるのに。

結局、今日の打ち合わせで「決まったこと」は、ほとんどなかった。
演説会みたいだった。

丁寧に挨拶をして、外に出た。
心も体も、ぐったりしていた。

無意識のまま、足が向かっていたのは――さっきの交差点。

ピッピッという電子音が、青空に響いている。
さっき、ここで。すれ違ったの。

声は、かけられなかった。
――かけてほしかったのかもしれない。

でも、それがどういう気持ちなのかは、まだ分からない。

ただ、あえて言葉を交わさなかったことが、
逆に、何かを残してくれたような気がしている。

……そう思いたいだけかもしれないけど。

たぶん、そう思っているのは、私だけ。
でも、それでもいい。

今日は、
ことばを――浴びすぎた。
……「疲れたよぉ…」

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