
《今日は一日、言いたいことが言えなかった。》
朝はまだ、ひんやりとした空気だった。
寒いってほどじゃないけど、何か一枚、羽織りたくなる。
街の音にも、午前中らしい余裕と慌ただしさがあって、少し活気がある。
今日は、朝から調子がよかった。
顔色も悪くないし、事務所に着いたときには、すでに何人かのスタッフがいて。
挨拶の声や笑い声が聞こえていて、楽しそうだった。
午後からは、新しい広告デザインの提案で打ち合わせがある。
相手は、以前からのクライアント。信頼もされてる。
だからこそ、ちゃんとした仕事をしたい、と思った。
服装には、少し迷った。
きちんと見えるけれど、堅苦しくない。
それでいて動きやすい。
トーンは落ち着かせて、足元はヒールじゃなくてローファー。
「気合い入ってます感」は出さずに、でも「ちゃんとしてる感じ」は必要。
このバランス、地味にいつも悩む。
見え方ですべてが決まるわけじゃない。
でも、見せ方で全部が決まってしまうこともある。
私は、それを何度も体験してきた。だから、気を抜けない。
少し早めに事務所を出た。
歩くときは、背筋を意識する。
前に、歩き方の講座に行ったことがある。
「地面をしっかり蹴ること」
――それだけで、見え方が全然変わるらしい。
オフィスビルのガラスに写る姿を横目で確認する。
颯爽と歩く感じ。自分でも、けっこう気に入っている。
たぶん、“ちゃんとしてる自分”になれている気がするから、かもしれない。
……つまり私は、いつも人からの見え方を、気にしているのね。
でも、通りに出たときだけは、少しゆっくり歩いた。
周りに合わせる。
街路樹の葉が、ついこの前までは黄緑色だったのに、今は濃い緑色になっている。
車の音。バスの低い音――嫌いじゃない。
信号機の、あの高い電子音は、少し刺さる。苦手。
赤信号で立ち止まる。
向こう側に、ひとつの人影が見えた。
よれたジャケット。重たそうな足取り。
顔を上げきらないまま、どこか、だるそうで。
――すぐに分かった。中原さんだ。
言葉が浮かんだけど、動けなかった。
こちらを見た……ような気がした。
でも確かじゃない。
目が合ったのか、そう思いたかっただけなのか。
彼は、少し向こうを向いたまま歩き出した。
そのまま、通りの反対側を、進んでいく。
信号が青に変わった。
私も、歩き出す。
でも、さっきまでと違う足取り。
少し不自然で、ほんの少しだけ、重い。
前に進んでいるのに、
どこか、身体が後ろに引っ張られているような感覚。
声をかければよかったのかもしれない。
名前を呼ぶのは躊躇したけど、手を振るくらいなら――
……でも、できなかった。
理由は、よくわからない。
意識しすぎたのか。
本当は何も考えたくなかったのか。
気まずいわけでも、嫌っているわけでもない。
ただ、言葉が出なかった。
背中を見送ったわけじゃない。
でも、視界の端で、彼が少しずつ遠ざかっていくのを感じた。
振り返らず、真っ直ぐに歩いた。
歩幅に、心が少し遅れる。
雑踏の中にまぎれていく音。
信号を渡った先の横断歩道。
人々が、次々と交差していく。
気づいていたと思う。
私も。彼も。
でも、お互いに、気づいてないふりをした。
少し立ち止まれば。
信号を渡れば。
すぐに、話せたのかもしれない。
でも――
今はまだ、その距離が必要なの。たぶん。
それが分かってるから。今は、まだ……。
ビルの入口に着く。
気持ちを切り替えようとした。
でも、これは、後悔なのかな……
認めたらいけない気がして――
気づかないふりをした。
言いかけて、言わなかったときにだけ残る、あの感覚。
背筋を伸ばして、肩を開いて、地面を蹴る。
歩く。ちゃんと前に進んでる。
でも、今日はなぜか、進んでる気がしなかった。
クライアントとの打ち合わせが始まった。
いつもの担当者。とにかく、よく話す人。
私が何か言おうとすると、かぶせるように話し始める。
自分のテンションのまま、関係のない話までどんどん続ける。
最近読んだ本の話。
休日に行ったカフェ。
子どもの学校のこと――
たぶん、本人の中では全部“つながってる”んだろう。
でも、私には、その線が見えなかった。
ようやく話が途切れたかと思って、
「それでは、今回の件の方向性についてですが――」
と話し始めた途端、また別の話をかぶせてくる。
そういうやりとりが、今日だけで何度もあった。
慣れているはずなのに、疲れる。
言葉って、ただ出せばいいものじゃない。
多すぎるほど本音が遠ざかることもあるのに。
結局、今日の打ち合わせで「決まったこと」は、ほとんどなかった。
演説会みたいだった。
丁寧に挨拶をして、外に出た。
心も体も、ぐったりしていた。
無意識のまま、足が向かっていたのは――さっきの交差点。
ピッピッという電子音が、青空に響いている。
さっき、ここで。すれ違ったの。
声は、かけられなかった。
――かけてほしかったのかもしれない。
でも、それがどういう気持ちなのかは、まだ分からない。
ただ、あえて言葉を交わさなかったことが、
逆に、何かを残してくれたような気がしている。
……そう思いたいだけかもしれないけど。
たぶん、そう思っているのは、私だけ。
でも、それでもいい。
今日は、
ことばを――浴びすぎた。
……「疲れたよぉ…」

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