【麻衣編】第十一話 読みたくて、読めなくて

《見ないようにしてるだけで、
本当は、もう気づいてるのかもしれない》


夕方。
雑誌社の人が来た。
何かと思ったら、先日の原稿がもうできたとのこと。
とても早いのね。

すぐに見たい気もあるけれど、なんとなくそれを見ることが怖い気がした。

「内容はこんな感じでできてます。変更があったら連絡ください」

雑誌社の人はそう言って、さっと立ち去った。
隣にいたスタッフのあの子が、私の顔を覗き込んでくる。

「見せてくださいよ〜」と、笑いながら。

「ダメだって。まだ私が読んでないんだから」

笑ったとき、なぜか顔が熱くなった。
気のせいよ、気のせい。

原稿をカバンにしまう。
そこにある文字は、あの人から見た私。

それを知るのは、正直怖い気もする。
私はどんな風に見られているんだろう。
どんな風に見えたんだろう。

ちゃんと読みたい。……けれど、今は開けなかった。

その両方の気持ちをいっしょに入れて、ファスナーを閉じた。


家に帰ると、相変わらず静かだった。
いや、これは「寂しい」んじゃない。

……「静か」
そう、自分に言い聞かせるように、心の中でつぶやいた。

時計の針の音が、こんなに響いていたっけ。
空気清浄機のファンの音も、今日はいつもより存在感がある気がした。

お昼を食べ損ねていたから、ありあわせで簡単に済ませた。
食べながら、テーブルの上に置いたままの原稿を見た。

手には取らない、ただ見てるだけ。

たぶん私は今、原稿を読むことから逃げている。
それは自分でわかっている。

私はテレビのリモコンに手を伸ばしていた。
画面がぱっと明るくなり、バラエティ番組の賑やかな音が流れた。

その明るさがいやで顔をそむけた。すぐに消した。

今日は、作られた明るさがいらない日。

部屋の中の静けさに、戻る。
少し重い、静かな空気。
今はこの方がいい。

私は多分、怖いんだ。
どう思われているかが、これでわかるから。

もちろん、そこに個人の感想は入っていない。
けれど、私が見せている“私”は、そこに必ずある。

もしかしたら、そう受け取られるのが怖いのかもしれない。
それは“作った私”だから。

作った私……自分でもその言葉に引っかかった。


お風呂に入って、湯船に身を沈める。

揺れている私が、お湯の中にいる。
これが私の、心なのかもね。

気がつくと、また取材のことを思い出していた。
椅子の角度を直すかどうか、最後まで迷って、結局そのままにした。

あれでよかったのかは分からない。
でも、あの日の私は、あのまま向き合いたかったのだと思う。

“作った私”ももちろん大切。
でも向き合いたかったのは、どの私なんだろう。

中原さんは、最後まできちんと話を聞いてくれていた。
インタビューというより、少し長い会話のようだった。

たったそれだけのことが、妙に印象に残っている。

そう思った瞬間、胸の奥がかすかに揺れた。
お湯のせい……うん、きっと気のせい。


湯上がりの肌に、春の夜の風がひんやりとまとわりつく。
パジャマに着替えて、私はゆっくりとテーブルの前に座った。

深呼吸をして、原稿をカバンから取り出す。

ページをめくる指の動きが、少しだけ固い。
ゆっくりと手を開いたり閉じたりする。
自分の感覚を取り戻す。

そこに並んでいたのは、どこかで見覚えのあるような言葉だった。

「女性経営者」
「ときめく」「輝く」「自立した」
「これからの時代の――」

あの頃、雑誌の見出しでよく見かけたような語句たち。

まるでテンプレートのように並ぶ、それらの言葉の中に、
「早川麻衣」という名前が、何の違和感もなく紛れ込んでいた。

その下に、控えめに添えられていた名前。
「フリーライター 中原徹」

その文字を手のひらでそっと包み込むように温める。

この名前に触れることで、何かが起きるわけじゃない。
でも、そうしたくなった。

彼は、私をどう見て、どう書いたのだろう。
どこまでが私で、どこからが言葉として整えられた「誰か」なんだろう。

「輝く」

この言葉、私は自分に似合っているのか、似合っていないのか。

多分、人から見たら似合っているのかもしれない。
でも、自分のことのようには感じない。

努力はしてきた。
手を抜いたことはないつもり。
少しだけ逃げたことは、ある。

だから「輝く」とは、少し違う気がしていた。

私が頑張ってきたのは、自分のため。
手を抜かなかったのも自分のため。
少しだけしか逃げなかったのも、自分のため。

自分ができるということを証明したかったという感覚も、ある。

だから、「自立」という言葉には慣れていても、
「輝く」は、どこか居心地が悪い。

それでも今夜、名前のそばに書かれていたその言葉を、
私は何度も読み返していた。

少しだけ――
ほんの少しだけ、嬉しかったのかもしれない。

中原さんの手で整えられた文字の中に、
どこかに、私をちゃんと見つけてくれていた気がして。

それでも、気になってしまう。

私、輝けてるのかな?

部屋の中は、変わらず静かだった。

でも今夜の静けさは少し違う。
私の中が、ずっとざわざわとうるさかったから。

原稿を閉じると、胸のあたりに、ふっと余白ができた気がした。
深く息を吸いながら、目を閉じる。
そのとき、一瞬だけ、誰かの気配が浮かんだ。

明日になれば、たぶんまた、仕事をして、笑っている自分がいるだろう。
それでいい。

自分を信じて進んできたことは、間違いがない。

そして今、何かが――
これも間違いがない。

そんな夜。

私は、全部自分で気がついているの?かな
何に気がついているのかは、まだ自分でもよくわからない。

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