
《ふと浮かんでしまった「あの人の顔」に、心が少しだけ揺れていた》
取材が終わって、また“いつもの日常”が戻ってきた。
オフィスの空気も、通勤路の景色も、スタッフとのやりとりも——
全部、変わらない“いつもの感じ”。
でも、少しだけ違ったのは、
スマホが鳴ったときの、私の手の動きだった。
COACHのバッグを開けて、セリアのポーチの奥を探る。
いつもどこに入れたか、なんとなく自分の“置き癖”は覚えているのに、
今日はその場所にない。
手探りのまま、化粧ポーチをずらし、ハンドクリームを横によけていく。
どこに入れたっけ……と思う前に、手が鞄の中をさまよっていた。
かすかに画面が震え、スマホに指が触れる。
画面に表示された名前を見て、小さく息を吐いた。
肩の力が抜けた。
自分でも気づかないうちに、少しだけ身構えてたのかもしれない。
私は誰からの電話を期待していたんだろう…
電話に出る時に、なんとなく言ってしまった。
「……なんだ、お母さんかぁ」
相変わらずのお母さん節が炸裂する。
「なんだって、あんたねぇ」
「で、あんた元気してんの?」
受話器越しの声が、少しうるさくて、少し懐かしい。
思わず笑いがこぼれた。
「そーだ、私ね、雑誌にね……うん、雑誌よ、載るんだよ?」
そう言いながら、ほんの少しだけテンションを上げた。
嬉しそうに話す“私”を、お母さんに届けたい気持ちがあった。
言葉にしなきゃ伝わらないこともある。
でも、言葉にしたくないことだってある。
「ライターさんがね……」
続きそうになったその言葉を、喉の奥で飲み込んだ。
言いたくないわけじゃない。
でも——なんで今。
自分でも、よくわからなかった。
私は、何か大切なことを、いつも母に言わない。
昔からずっと、そうだった。
それを、今、急に思い出した。
電話を切って、スマホをそっとバッグに戻す。
指先が何かに引っかかった気がして、手元を見る。
「あ……」
ネイルの先が、少しだけ剥げていた。
どこかでぶつけたのか、バッグの金具に当たったのか——
原因なんてどうでもよかった。
たいしたことじゃない。
誰に見せるわけでもないし、営業に出る予定もない。
ただの“身だしなみ”。
そう、ただの。
でも、そのときの私は、なぜかその剥げたネイルが、
誰かに見られるのが嫌だと思った。
それが誰なのかなんて、考えたくなかった。
ただ、見られたくなかった。
昼前。
スタッフが買ってきたコーヒーを受け取る。
「ありがとうございます」
いつも通りに言って、笑顔も、いつも通りに返した。
自分が今、ちょっとだけ“整えられていない”と感じていることなんて、
きっと誰にも伝わっていない。
それでいい。
伝わらなくていい。
そう思っていた。
でも。
……考えているのかもしれない。
自分でも、わからないままに。
「社長、社長?」
返事が遅れた。
呼ばれたことが、分からなかった。
「大丈夫ですか?」
笑顔で返した。
顔だけが笑っていたと思う。
午後から、少し会議が入っている。
ちゃんとやるべきことはあるし、明日の資料もまだ仕上がっていない。
自分にとって、やらなきゃいけない“役割”は、変わらずそこにある。
こなせるし、やるべきだと思う。思っている。
でも、なんでなの?
今じゃなくてもいいことに、必要以上に時間がかかる。
スライド1枚を直すだけなのに、なぜか手が止まってしまう。
意味のない資料フォルダを開いたり閉じたり。
その無駄な繰り返しの中に自分を逃がしている。
頭ではわかっている。
けれど、心のどこかに、
“何かを考えないようにしている自分”がいる気がした。
誰にも見せないつもりの自分が、
ほんの少しだけ、どこかにこぼれているのかもしれない。
いつも通りに全てが進んでいる。
そう、いつもどおりに——

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