【麻衣編】第九話 いつも通りに

《ふと浮かんでしまった「あの人の顔」に、心が少しだけ揺れていた》


取材が終わって、また“いつもの日常”が戻ってきた。

オフィスの空気も、通勤路の景色も、スタッフとのやりとりも——
全部、変わらない“いつもの感じ”。

でも、少しだけ違ったのは、
スマホが鳴ったときの、私の手の動きだった。

COACHのバッグを開けて、セリアのポーチの奥を探る。
いつもどこに入れたか、なんとなく自分の“置き癖”は覚えているのに、
今日はその場所にない。

手探りのまま、化粧ポーチをずらし、ハンドクリームを横によけていく。

どこに入れたっけ……と思う前に、手が鞄の中をさまよっていた。
かすかに画面が震え、スマホに指が触れる。

画面に表示された名前を見て、小さく息を吐いた。

肩の力が抜けた。
自分でも気づかないうちに、少しだけ身構えてたのかもしれない。
私は誰からの電話を期待していたんだろう…

電話に出る時に、なんとなく言ってしまった。

「……なんだ、お母さんかぁ」

相変わらずのお母さん節が炸裂する。

「なんだって、あんたねぇ」
「で、あんた元気してんの?」

受話器越しの声が、少しうるさくて、少し懐かしい。
思わず笑いがこぼれた。

「そーだ、私ね、雑誌にね……うん、雑誌よ、載るんだよ?」

そう言いながら、ほんの少しだけテンションを上げた。
嬉しそうに話す“私”を、お母さんに届けたい気持ちがあった。

言葉にしなきゃ伝わらないこともある。
でも、言葉にしたくないことだってある。

「ライターさんがね……」

続きそうになったその言葉を、喉の奥で飲み込んだ。

言いたくないわけじゃない。
でも——なんで今。

自分でも、よくわからなかった。

私は、何か大切なことを、いつも母に言わない。

昔からずっと、そうだった。

それを、今、急に思い出した。

電話を切って、スマホをそっとバッグに戻す。
指先が何かに引っかかった気がして、手元を見る。

「あ……」

ネイルの先が、少しだけ剥げていた。
どこかでぶつけたのか、バッグの金具に当たったのか——
原因なんてどうでもよかった。

たいしたことじゃない。
誰に見せるわけでもないし、営業に出る予定もない。
ただの“身だしなみ”。

そう、ただの。

でも、そのときの私は、なぜかその剥げたネイルが、
誰かに見られるのが嫌だと思った。

それが誰なのかなんて、考えたくなかった。
ただ、見られたくなかった。

昼前。
スタッフが買ってきたコーヒーを受け取る。

「ありがとうございます」

いつも通りに言って、笑顔も、いつも通りに返した。

自分が今、ちょっとだけ“整えられていない”と感じていることなんて、
きっと誰にも伝わっていない。

それでいい。
伝わらなくていい。

そう思っていた。

でも。

……考えているのかもしれない。

自分でも、わからないままに。

「社長、社長?」

返事が遅れた。
呼ばれたことが、分からなかった。

「大丈夫ですか?」

笑顔で返した。
顔だけが笑っていたと思う。

午後から、少し会議が入っている。
ちゃんとやるべきことはあるし、明日の資料もまだ仕上がっていない。

自分にとって、やらなきゃいけない“役割”は、変わらずそこにある。
こなせるし、やるべきだと思う。思っている。

でも、なんでなの?

今じゃなくてもいいことに、必要以上に時間がかかる。
スライド1枚を直すだけなのに、なぜか手が止まってしまう。

意味のない資料フォルダを開いたり閉じたり。
その無駄な繰り返しの中に自分を逃がしている。

頭ではわかっている。

けれど、心のどこかに、
“何かを考えないようにしている自分”がいる気がした。

誰にも見せないつもりの自分が、
ほんの少しだけ、どこかにこぼれているのかもしれない。

いつも通りに全てが進んでいる。

そう、いつもどおりに——

コメント

タイトルとURLをコピーしました