【麻衣編】第六話 この静けさの中で

《一人でも大丈夫なはずだった》


夕方のオレンジ色に、ピンクが混ざったような空は、少しだけ寂しい感じがした。

いろいろ考えながら、帰り道を歩いた。
もちろん、クレープは美味しかった。
けれど甘さの余韻が消えたあとに残ったのは、なんとも言えない静けさだった。

商店街を通る人たちは、夕飯の準備に急ぐ人、制服姿でおしゃべりに夢中な学生、
買い物袋を両手に下げた年配のご夫婦。
人ごみに紛れると、少しだけ救われる気がする。
寂しいけれど、寂しいだけじゃない場所――そういう空間は、案外好きかもしれない。

私はね、自分では“頑張ってきた”と思ってる。
でも同時に、「もっと頑張れたんじゃないか」「もっと上手にやれたんじゃないか」って、
そういう思いもずっとある。
それが悪いことだとは思わないけれど、
そういう思いに囚われて、動けなくなるときがある。

商店街の端を抜けて、大通りを渡る。
夜風が少し冷たい。クレープを包んでいた甘い匂いが、まだ帰りたくなさそうにしていた。

小さな光がいくつも重なっているこの街の中に、
私の灯りもあるのだろうか――
そんなことを考えながら、ようやく家の前に着いた。

ガチャリ。
鍵の音が、今日は少し重たく感じた。

「ただいま」
誰もいないって分かっているのに、思わず声が出てしまう。
返事のない空気に、自分の声がすうっと吸い込まれていく。

照明をつけた部屋は、朝と同じで、何も変わっていない。
ただ、朝が夜になっただけ。
それだけのはず。

テーブルの上には、朝読んだままの雑誌と、飲みかけのルイボスティー。
冷えたカップ。
ただ冷えただけ…。

猫のぬいぐるみが、じっとこっちを見ている。
まるで「おかえり」とでも言いたげな顔で。
そんなはずないのに、私はつい微笑んでしまう。

「どうしたの?」

ぬいぐるみに問いかけるように声を出して、
自分でも少しおかしくなった。
でもその声がなければ、今夜の部屋は、少し静かすぎた。

私は今日、なぜこんな気持ちになっているんだろう。
楽しかったはず。笑っていたはず。

でも、あの一言――

「麻衣ちゃんって、仕事が恋人みたいなもんだよね」

その言葉が、妙に胸に残っている。
悪気なんてなかった。ただの冗談だった。
それでも、どこか深いところに突き刺さっている。

いや、本当は言葉そのものじゃないのかもしれない。
多分、私自身がずっと見ないようにしていたこと。
見ないようにしていたものを、見せられた。
でも、今夜はそれに触れる気力がない。

私は今日まで、止まる理由を探さなかった。
答えが見えないまま、それでも前を向いていた。
だからこそ、立ち止まったときに、こうして心が揺れるんだと思う。

少しだけベランダに出てみた。
夜の空気が肌にまとわりついて、ほんのわずかに寒い。
マンションの向こうに見える住宅街の灯りが、ぽつぽつと静かに光っている。

どの家にも、それぞれの生活があるんだろう。
誰かが笑っていて、誰かが泣いていて、
ご飯を食べている人、子どもを寝かしつけている人、仕事をしている人。
見えないけれど、確かにそこに人の気配がある。

知らない誰かの家の灯りに、不思議と連帯感を感じる。
私は、今まであまりそういうことを考えなかった。
強くなりたかったし、弱さを見せるのが怖かったから。

でも本当は、私は思っているほど強くない。

何でも一人でこなして、評価されて、結果を出すこと。
それが自分の価値なんだって、どこかで思い込んでいた。

部屋に戻って、棚の端に置いてある雑誌を手に取る。
学生の頃によく読んでいたもの。
「自立した女性特集」と大きく書かれた表紙。

今見れば少し時代遅れのレイアウトだけど、
当時の私はこれに憧れていた。

何かで結果を出すこと。
好きな仕事をすること。
誰かに頼らず、自分の力で生きていくこと。

でも最近、思うようになった。

「うまくいったことを、誰かと一緒に喜べたら、もっとよかったのかもしれない」って。

成功とか失敗とかじゃなくて、
ただ「見ててくれる誰か」がいたら――
そんなことを考える自分がいる。

そしてそのことを、誰にも言えずにいる私もいる。

「寂しくないよ」って言ったら、きっと嘘になる。
でも、それをそのままにしておくのも、今は必要なのかもしれない。

私は今、少しだけ休みたい。
そして、明日は笑おう。
少しぎこちなくても、“自立した私”を見せてこよう。
それが今の、私にできる精一杯。

猫ちゃんのぬいぐるみを、もう一度ぎゅっと抱きしめる。
柔らかくて、温かいわけじゃないけれど、そこにいてくれる。

猫ちゃんは、やっぱり無口だった。

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