【麻衣編】第四話 がんばれた日の夜

《がんばったはずなのに、どうして…》


夜のオフィスは静かだった。
時計を見れば、もう9時を回っている。
窓の外には、ちらほらとビルの灯り。
街はまだ完全には眠っていないけれど、このフロアだけは、ひと足先に深夜に片足を突っ込んでいた。

「今日は頑張れたな」

気づけば口にしていた。
誰に言ったのか、自分でもよくわからない。

クライアントからの「また次も頼むよ」の一言。
頭の中でずっとそれを繰り返していた。
あの言葉が、今日一日を報われたものにしてくれる。
たぶん、それだけで、この数週間の睡眠不足にも耐えた意味があった。

パソコンをシャットダウンして、机の上を片付ける。
書類をしまい、付箋をはがし、カップの中に残った冷めた紅茶を片付ける。
“明日できることは、明日やる”——そう割り切って、ようやく帰る支度を始める。

事務所を出たとき、ビルの廊下にひとりきりだった。
緑の非常口のランプが光っていた。
足音がカツンカツンと響いた。


玄関の鍵を開けて、薄暗い部屋に入る。
「ただいまー」
いつもの癖で、声が出た。

返事はもちろんなかった。
うん、そうよね。

誰もいない部屋。
テーブルの上の猫のぬいぐるみがこっちを見てる。
返事が返ってくることはないとわかっていても、つい言ってしまう。

靴を脱いで、コートを脱いで、カバンをソファに置く。
照明のリモコンを押す。薄暗い明かり。
それだけで、少しだけ心が落ち着いた。

「……ご飯、もういいや」
食べる元気がないというより、作ることも、買いに出ることも面倒だった。

何か食べなきゃと思いながら、テレビの電源を入れてみる。
バラエティ番組が無理をして明るく笑っていた。

けれど、それはまるで別の世界の音のように感じた。
テンションの高い声、わざとらしい笑い、鮮やかすぎる照明。
「うるさい」
すぐに電源を切った。

部屋が静かに戻る。
カバンの中を探って、シリアルバーを取り出す。
包装を破り、そのまま齧る。
パサパサとした甘さが口の中に広がる。

スマホを開いて、SNSのアプリを起動する。
通知がいくつか溜まっていた。
返信しなきゃ、と思いつつ、なかなか手が動かない。

昼間、高校時代の友達からLINEが届いていた。
「SNS始めたから見てねー!」

笑顔のスタンプと一緒に送られてきたリンクを、ようやく開く。

タイムラインに並んでいたのは、在り来りな写真だった。
カフェのスイーツ、週末の家族写真、公園のベンチ、小さな子どもの後ろ姿。

“こういうの、よく見るよね”と思いながらも、画面をスクロールする指先は早送りのそれだった。
流れていく画面。

開いたからには何かリアクションしなければと思ってしまう。
そうしないと人は色々面倒くさい。それも知っている。

「良かったよー!」
そうコメントを残すのが、今の自分にできる精一杯だった。

SNS、なんか楽しそうだったな。

少し雑にスマホを伏せる。
食べかけのシリアルバーを見つめたまま、ふうと息をつく。

がんばれた日だった。
今日の仕事は、本当に自信作だった。
クライアントの言葉も、ちゃんと嬉しかった。

なのに、夜になって、こうして一人きりの部屋で食べる甘いバーの味は、
どうしてこんなにも物足りないのだろう。

“こんな日があってもいい”と、いつもなら思える。
でも今夜は、ちょっとだけ、それがうまくできない気がした。

照明を少しだけ暗くした。ソファーの柔らかさが少し優しかった。
外の音も聞こえない静かな部屋。

……私には、何があるんだろう。

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