
《嬉しいけど、でも…》
一日の滑り出しは何も問題がなかった。
「いやいやいやいや、すごく良かったです。こちらとしては大満足です!」
クライアントは自分の部下の肩をバシバシ叩きながら、ずっと笑っていた。
クライアントの言葉に、麻衣は笑顔で頷いた。
でも、自分の笑顔が少しぎこちないことを自分だけが感じていた。
プレゼンが終わって、先方からの評価も上々。
納品も予定より早く、進行もスムーズ。
自分が組み立てたプロジェクトが、思い通りに進んで評価されるのは、純粋に嬉しい。
けれど…
なんか…
その言葉が、心の奥からふっと浮かんできた。
自分がここにいて、自分がいないような…
明るく感謝の言葉を返しながら、その違和感には触れないようにする。
今ここで水を差すようなことは、意味がない。
「今後もぜひお願いしたいです」
部下の人が肩をさすりながら頭を下げていた。
「はい、ぜひまたご一緒させてください」
麻衣は自然に笑っていた。自分でも驚くほど、自然に。
怖いくらいに、流れるような会話だった。
営業スマイルも、打ち合わせ後の柔らかな会釈も、――今ではすっかり板についている。
昔は苦手だった“場の空気を読むこと”も、今では呼吸の一部になっている。
オフィスに戻って資料を整理していると、クライアントからメッセージが届いた。
「早川さんを推薦しておきました」
うん?なに?
一瞬、目が止まる。
「女性経営者の特集で、自立した女性をテーマにした企画があるらしいです」
「早川さんのような方に、ぜひ登場してほしいって声が出ていて推薦しておきました」
スマホの画面を見つめたまま、麻衣はしばらく動けなかった。
スマホを裏返して頬杖をつく。
悪い話じゃない。むしろ、ありがたい話だ。
ここまで仕事をしてきた中で、自分が「誰かの目に留まる存在になっていた」という事実。
それは確かに、誇らしいことのはずだった。
「……ありがとうございます。喜んでお受けします」
そう返信した指先は、なぜか重かった。
まただ…
自分がここにいて居ないような違和感…
夜、自宅のテーブルにビジネス雑誌を広げていた。
夕食はシリアルで適当に済ませた。
今回の特集と似たような企画を探し、参考になりそうな構成やトーンを確認する。
成功した女性たちの笑顔が、何ページにもわたって並んでいる。
「好きなことを仕事にできて幸せ」
「やりたいことは、全部やる」
「今が一番、自分らしい」
そんな言葉たちが、明るく、力強く、読みやすく並んでいた。
どこかで見たことのあるような言葉。
どれも間違っていない。けれど、なぜか、胸の奥に何も残らない。
ページをめくるのをやめた。
めくりたくなくなったのかもしれない。
部屋の空気が、少し冷えていた。
膝にかけた薄いブランケットを握りしめながら、静かに息を吐く。
「……なんか、つまらない」
声に出してみたけれど、部屋の空気は何も変わらなかった。
やっと、取材される側になれたのに。
「私もあんなふうになれたら」って、いつも思っていたはずなのに。
本当は嬉しい。
本当は、誇りたい。
でも今の自分は、心からその気持ちを受け取れないでいる。
「これは、多分……疲れてるだけ」
そうつぶやいて、自分の気持ちに蓋をする。
そう思わないと、この違和感をどうにもできない気がした。
テーブルの端に置いたルイボスティーは、すっかり冷めていた。
それを飲む気にもなれず、麻衣はただ雑誌のページを閉じる。
「パタン」という音がどこかむなしかった。
ソファに体を預ける。
「疲れたー」
上に伸びながら声を出した。
気持ちは、軽くならなかった。
眠気はない。でも、目を閉じたくなる。
大きく息が吸えない。
「自立した女性」
若いころにとても憧れた言葉。
今はその言葉が自分に向けられている。
昔の自分なら「夢が叶って良かったね」くらいのことを言って喜ぶだろう。
でも今は、そんな言葉を言って欲しくない気がした。
もう何年も自分の肩に乗っているその言葉…
誰に求められたわけでもなく、自分で選んだ道だった。
それなのに、今夜は、少しだけ…重たく感じる。
重いだけじゃなくて、
「自分なの?」みたいな変な感じが、ずっとある…
部屋の隅に置いた加湿器のランプが、ゆっくりと点滅していた。
湯気がほとんど出ていないのは、水を替えていなかったからかもしれない。
気づいていたけど、立ち上がる気にはなれなかった。

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