【麻衣編】第三話 評価の先にあるもの

《嬉しいけど、でも…》


一日の滑り出しは何も問題がなかった。

「いやいやいやいや、すごく良かったです。こちらとしては大満足です!」
クライアントは自分の部下の肩をバシバシ叩きながら、ずっと笑っていた。

クライアントの言葉に、麻衣は笑顔で頷いた。
でも、自分の笑顔が少しぎこちないことを自分だけが感じていた。

プレゼンが終わって、先方からの評価も上々。
納品も予定より早く、進行もスムーズ。
自分が組み立てたプロジェクトが、思い通りに進んで評価されるのは、純粋に嬉しい。

けれど…
なんか…

その言葉が、心の奥からふっと浮かんできた。
自分がここにいて、自分がいないような…

明るく感謝の言葉を返しながら、その違和感には触れないようにする。
今ここで水を差すようなことは、意味がない。

「今後もぜひお願いしたいです」
部下の人が肩をさすりながら頭を下げていた。
「はい、ぜひまたご一緒させてください」
麻衣は自然に笑っていた。自分でも驚くほど、自然に。

怖いくらいに、流れるような会話だった。
営業スマイルも、打ち合わせ後の柔らかな会釈も、――今ではすっかり板についている。
昔は苦手だった“場の空気を読むこと”も、今では呼吸の一部になっている。

オフィスに戻って資料を整理していると、クライアントからメッセージが届いた。

「早川さんを推薦しておきました」
うん?なに?
一瞬、目が止まる。

「女性経営者の特集で、自立した女性をテーマにした企画があるらしいです」
「早川さんのような方に、ぜひ登場してほしいって声が出ていて推薦しておきました」

スマホの画面を見つめたまま、麻衣はしばらく動けなかった。
スマホを裏返して頬杖をつく。
悪い話じゃない。むしろ、ありがたい話だ。

ここまで仕事をしてきた中で、自分が「誰かの目に留まる存在になっていた」という事実。
それは確かに、誇らしいことのはずだった。

「……ありがとうございます。喜んでお受けします」
そう返信した指先は、なぜか重かった。

まただ…
自分がここにいて居ないような違和感…


夜、自宅のテーブルにビジネス雑誌を広げていた。
夕食はシリアルで適当に済ませた。

今回の特集と似たような企画を探し、参考になりそうな構成やトーンを確認する。

成功した女性たちの笑顔が、何ページにもわたって並んでいる。

「好きなことを仕事にできて幸せ」
「やりたいことは、全部やる」
「今が一番、自分らしい」

そんな言葉たちが、明るく、力強く、読みやすく並んでいた。
どこかで見たことのあるような言葉。
どれも間違っていない。けれど、なぜか、胸の奥に何も残らない。

ページをめくるのをやめた。
めくりたくなくなったのかもしれない。
部屋の空気が、少し冷えていた。
膝にかけた薄いブランケットを握りしめながら、静かに息を吐く。

「……なんか、つまらない」

声に出してみたけれど、部屋の空気は何も変わらなかった。
やっと、取材される側になれたのに。
「私もあんなふうになれたら」って、いつも思っていたはずなのに。

本当は嬉しい。
本当は、誇りたい。
でも今の自分は、心からその気持ちを受け取れないでいる。

「これは、多分……疲れてるだけ」
そうつぶやいて、自分の気持ちに蓋をする。
そう思わないと、この違和感をどうにもできない気がした。

テーブルの端に置いたルイボスティーは、すっかり冷めていた。
それを飲む気にもなれず、麻衣はただ雑誌のページを閉じる。
「パタン」という音がどこかむなしかった。

ソファに体を預ける。
「疲れたー」
上に伸びながら声を出した。
気持ちは、軽くならなかった。

眠気はない。でも、目を閉じたくなる。
大きく息が吸えない。

「自立した女性」
若いころにとても憧れた言葉。
今はその言葉が自分に向けられている。
昔の自分なら「夢が叶って良かったね」くらいのことを言って喜ぶだろう。
でも今は、そんな言葉を言って欲しくない気がした。

もう何年も自分の肩に乗っているその言葉…

誰に求められたわけでもなく、自分で選んだ道だった。
それなのに、今夜は、少しだけ…重たく感じる。

重いだけじゃなくて、
「自分なの?」みたいな変な感じが、ずっとある…

部屋の隅に置いた加湿器のランプが、ゆっくりと点滅していた。
湯気がほとんど出ていないのは、水を替えていなかったからかもしれない。
気づいていたけど、立ち上がる気にはなれなかった。

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