【麻衣編】第二話 ルイボスティーの午後

《“もう恋愛はしなくていい”。ふと、そんな言葉が浮かぶ午後だった。
ぬるくなったルイボスティーと、吹き込む風と、胸の中の小さな空白。
ただそれだけの時間に、今日は少しだけ意味があった気がする。》


いつものカフェ、
いつもの椅子、
いつものカップ。

そして、いつもの、ルイボスティー。

美味しくない?——そう、そんなに美味しくはない、かもしれない。
けれど、もう慣れた。

香りが薄くて、口当たりも穏やかで、
何よりノンカフェイン。

雑誌の健康特集で紹介されていたのを、
なんとなく買ってみて、なんとなく続いている。

そろそろ、そういうことも考える年頃かな、と思う。
肌、睡眠、体の冷え。気になり始めたらキリがない。

少し前までは、カフェオレを頼んでいたはずなのに、
気づけばそれも遠ざけていた。

カフェオレと同じで遠ざけているものがもうひとつ——

「もう恋愛もしなくていい」

そんなふうに考えることが増えた。
“そんな歳じゃないし”って、誰に言うでもなく心の中でつぶやいてみる。

でも実際のところは、歳だから…じゃなくて。
本当は、もうあんな辛い思いはしたくないだけ。

“傷つきたくない”って言葉は、
今の自分には少し甘すぎる気がして、口に出すのも気が引ける。

午後2時を少し回った時間。

店内には控えめなジャズが流れていて、
カウンターでは豆を挽く音がしていた。

何度目かわからないこの椅子に座りながら、
背中でドアの開閉音を聞いている。

近くのテーブルには、
おそらく学生らしき二人が向かい合って座っていた。

ノートとパソコンを開いて何かを話し合っている。
若い声。早口。楽しそう。

視線を向けるでもなく、
ただ、その空気が伝わってくる。

スマートフォンに手を伸ばして、通知を確認する。
グループLINEが一つ、スタンプだけでやり取りが終わっていた。
仕事のメールが一通。返信する気になれなくて、画面を閉じる。

窓際の席から見えるのは、駅へと続く通り。
通り過ぎる人たちは、それぞれに何かを抱えていて、
その“何か”が、自分にはちょっとだけ遠い気がする。

そんな感覚を持つのは、今日が初めてじゃないけれど、
今日は特に、そう思った。

“何かが足りない”というほどでもなく、
“何かが過剰”というわけでもない。

ただ、どこか、うまくはまらない。

湯気の向こうにぼんやり見える景色が、
心の奥のもやもやと重なる。

「そういう日もあるよね」

心の中で自分にそう言い聞かせる。

ほんの少しだけ眉間に力が入っているのに気づいて、
ゆっくり呼吸を整える。

口元にカップを運んで、
冷めかけたルイボスティーをひと口含む。

ぬるい。けれど、ぬるいのが悪いわけじゃない。
温度が落ちたことで、むしろ優しさを感じるときもある。

テーブルの上に置かれたカップの受け皿に手が触れた。
硬く、冷たい…
それだけのことなのに、気持ちが少しざらついた。

カウンターの向こうでカップを洗うシャーと言う音、たまに開け締めされるバタンと言う扉の音に救われた気がする。

あれだけ毎日忙しかったのに、
こうして空いた午後にぽっかり穴があくと、
どこかに“用事”を探したくなる。

でも今は、無理に埋める気にもなれなかった。

ふと、誰かと話したいなと思った。

声に出せばすぐ消えてしまいそうな、その小さな欲求。

でもすぐに、その誰かが特に思い浮かばないことに気づく。

そうして、またひと口。

コーヒーと違って、ルイボスティーは香りが残らない。
何も引きずらずに、ただ消えていく。

そんなところが、今の自分に合っている気がする。

外の景色をぼんやり眺める。
目に入ってくるのは、交差点に立つ人々。

誰かがベビーカーを押していて、
誰かが小走りで横断歩道を渡っていた。

「このまま夕方になるのもなんだか癪」

そんなことを、誰にも聞かれない声でつぶやいてみる。

癪、なんて言葉を使う自分に少し笑いながら、カップの底を見た。

あと一口分。

どうしようか、と迷った末、飲まずに立ち上がる。

会計を済ませ、コートのポケットに手を入れて、店を出る。

冷たい風が、思った以上に強く吹いていた。

カフェのドアが背中で閉じる音がして、ふと空を見上げる。

雲の流れが、いつもより早い。

たぶん、今日はそういう日だった。

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