
《“もう恋愛はしなくていい”。ふと、そんな言葉が浮かぶ午後だった。
ぬるくなったルイボスティーと、吹き込む風と、胸の中の小さな空白。
ただそれだけの時間に、今日は少しだけ意味があった気がする。》
いつものカフェ、
いつもの椅子、
いつものカップ。
そして、いつもの、ルイボスティー。
美味しくない?——そう、そんなに美味しくはない、かもしれない。
けれど、もう慣れた。
香りが薄くて、口当たりも穏やかで、
何よりノンカフェイン。
雑誌の健康特集で紹介されていたのを、
なんとなく買ってみて、なんとなく続いている。
そろそろ、そういうことも考える年頃かな、と思う。
肌、睡眠、体の冷え。気になり始めたらキリがない。
少し前までは、カフェオレを頼んでいたはずなのに、
気づけばそれも遠ざけていた。
カフェオレと同じで遠ざけているものがもうひとつ——
「もう恋愛もしなくていい」
そんなふうに考えることが増えた。
“そんな歳じゃないし”って、誰に言うでもなく心の中でつぶやいてみる。
でも実際のところは、歳だから…じゃなくて。
本当は、もうあんな辛い思いはしたくないだけ。
“傷つきたくない”って言葉は、
今の自分には少し甘すぎる気がして、口に出すのも気が引ける。
午後2時を少し回った時間。
店内には控えめなジャズが流れていて、
カウンターでは豆を挽く音がしていた。
何度目かわからないこの椅子に座りながら、
背中でドアの開閉音を聞いている。
近くのテーブルには、
おそらく学生らしき二人が向かい合って座っていた。
ノートとパソコンを開いて何かを話し合っている。
若い声。早口。楽しそう。
視線を向けるでもなく、
ただ、その空気が伝わってくる。
スマートフォンに手を伸ばして、通知を確認する。
グループLINEが一つ、スタンプだけでやり取りが終わっていた。
仕事のメールが一通。返信する気になれなくて、画面を閉じる。
窓際の席から見えるのは、駅へと続く通り。
通り過ぎる人たちは、それぞれに何かを抱えていて、
その“何か”が、自分にはちょっとだけ遠い気がする。
そんな感覚を持つのは、今日が初めてじゃないけれど、
今日は特に、そう思った。
“何かが足りない”というほどでもなく、
“何かが過剰”というわけでもない。
ただ、どこか、うまくはまらない。
湯気の向こうにぼんやり見える景色が、
心の奥のもやもやと重なる。
「そういう日もあるよね」
心の中で自分にそう言い聞かせる。
ほんの少しだけ眉間に力が入っているのに気づいて、
ゆっくり呼吸を整える。
口元にカップを運んで、
冷めかけたルイボスティーをひと口含む。
ぬるい。けれど、ぬるいのが悪いわけじゃない。
温度が落ちたことで、むしろ優しさを感じるときもある。
テーブルの上に置かれたカップの受け皿に手が触れた。
硬く、冷たい…
それだけのことなのに、気持ちが少しざらついた。
カウンターの向こうでカップを洗うシャーと言う音、たまに開け締めされるバタンと言う扉の音に救われた気がする。
あれだけ毎日忙しかったのに、
こうして空いた午後にぽっかり穴があくと、
どこかに“用事”を探したくなる。
でも今は、無理に埋める気にもなれなかった。
ふと、誰かと話したいなと思った。
声に出せばすぐ消えてしまいそうな、その小さな欲求。
でもすぐに、その誰かが特に思い浮かばないことに気づく。
そうして、またひと口。
コーヒーと違って、ルイボスティーは香りが残らない。
何も引きずらずに、ただ消えていく。
そんなところが、今の自分に合っている気がする。
外の景色をぼんやり眺める。
目に入ってくるのは、交差点に立つ人々。
誰かがベビーカーを押していて、
誰かが小走りで横断歩道を渡っていた。
「このまま夕方になるのもなんだか癪」
そんなことを、誰にも聞かれない声でつぶやいてみる。
癪、なんて言葉を使う自分に少し笑いながら、カップの底を見た。
あと一口分。
どうしようか、と迷った末、飲まずに立ち上がる。
会計を済ませ、コートのポケットに手を入れて、店を出る。
冷たい風が、思った以上に強く吹いていた。
カフェのドアが背中で閉じる音がして、ふと空を見上げる。
雲の流れが、いつもより早い。
たぶん、今日はそういう日だった。

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