
《木のテーブルに差し込む午後の日差し。
誰もが見逃してしまいそうな、ただの時間のなかに、
少しだけ、何かが始まりかけている。》
『八ヶ月』、始まりの午後。
ふたりの視点を並べてお届けします。
中原徹編 『午後の光とノート』
淡々とした午後。
毎日だいたい同じことの繰り返し。
これと言ってやることもない。
社会から外れたのか、こぼれ落ちたのか。
そんなことはどうでもいい。
今がすべての結果だ。
投げやりというほどでもない。
でも、深くは考えたくなかった。
駅から少し外れた喫茶店。
最近ではカフェ、なんて呼ぶらしい。
チェーン店でもなんでもない、
木製のテーブルと丸椅子が並ぶ、少しくすんだ空間。
この街に戻ってから、
この店をよく使っている。
理由なんて、特にない。
でも、そんなものはたいてい後付けだ。
木のドアを開け、座る前に注文する。
いつもの自分のリズム。
「一番安いブレンドで」
味のことは気にしていない。
少し苦くても、濃すぎても、構わない。
ただ、店の空気に自分を馴染ませるための、儀式のようなものだ。
テーブル席の奥、窓際に
見覚えのある横顔があった。
また……だ。
この数週間で、三度目になる。
この店で彼女を見かけたのは。
白いシャツの襟元はきちんとしていて、姿勢も崩さない。
細かい仕草のひとつひとつに、誰かの視線を知っている人間の匂いがした。
目が合ったわけじゃない。
けれど、彼女だけが、この空間で妙に輪郭を持って見えた。
たまたま空いている隅の席に座る。
ガタつく、クッションもない木の椅子。
誰も座りたがらないわけだ。
バッグからノートと万年筆を取り出す。
カチ。
キャップを外した小さな音が、やけに大きく響いた気がした。
思わず視線を下げる。
何を書くでもない。
書けることなんて、もう残っていない。
それでも、“書こうとする自分”だけは、ここに残しておきたかった。
彼女がカップに口をつけた。
ちらっと見えた赤茶色の液体。
コーヒーではなさそうだ。
「……」
湯気の向こうで、目が合った――気がした。
でも、それも、きっと錯覚だ。
そろそろ、ページをめくろう。
何も書いていないままの一ページを。
ほんの少しだけ、
自分の中で、何かが始まりかけている。
そんな気がした、午後だった。
早川麻衣編 『また会った』
駅前から歩いて七分。
路地裏にある、昔ながらの喫茶店。
午後の予定まで、少しだけ時間が空いて、
ふらりと寄ってみた。
少し前からお気に入りのお店。
木のドアを開けると大きめのドアベルがカラーンて音がするの。
たまに鳴らない時があって、よく見てみたら少し歪んでた。
テーブルと椅子は木製。
壁には、古いジャズのレコード。
女性ボーカルのジャズが流れている。
少し懐かしい空気に包まれながら、
カップに手を伸ばす。
カップから指先に伝わる温かさが少し気持ちよかった。
ルイボスティー。
もう、何年も、飲み続けている。
そんなに美味しくもない。
「カフェインは控えるべき」
雑誌の特集に書いてあった。
なんとなく記事に流された、それだけ。
それを繰り返してる。
ふと、入り口から入ってきた人影に気づいた。
あの人。
また会った。
ここで見るのは、三回目になる。
三度目ともなると、
何かの縁かもしれないとさえ思えてくる。
少し、よれたシャツ。
髪は無造作。
清潔感がないわけじゃないけど、
どこか疲れている。
それでも、不思議と目が離せなかった。
自分が今、何を見ているのか。
そのことに気づいて、
少しだけ恥ずかしくなる。
慌ててカップに目を落とした。
ルイボスティーが揺れている。
それでも、気になる。
あの人は、今日もノートを開いている。
万年筆。
今どき珍しい。
ああいうのを使う人って、まだいるんだ。
なんか、いいな。
目が合った――気がした。
心に懐かしさが広がる。
小学生の時、クラスの足の速い男子を見ていた。
その時に目が合った。
どうしたらいいのか、わからなくなった。
なんでもない、ただの午後なのに。
(なにやってるの、わたし)
自分をごまかすように、スマホを取り出す。
LINEの通知が3件。
開く気にはならなかった。
ノートのページをめくる仕草が見えた。
何を書いているんだろう。
ほんの少しだけ、心の奥で、
「この時間がもう少しだけ続いてくれたらいいな」
なんて思ってしまった。
そんな自分に、
ちょっとだけ笑ってしまった。

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