【麻衣編】第三十話 塩素の匂いとあの声と

朝起きた。
部屋の中は、もわもわした空気。

床を歩くと、湿気で足裏が軽く吸い付いた。
エアコンを軽くつける。

会社も、お盆休み。
みんな、元気かしら。
スタッフの顔が浮かぶ。
昨夜のグループライン。
にぎやかだったな。
……口元が、少し緩んだ。

冷蔵庫を開ける。
いつもの冷茶。
グラスに氷をひとつ。

キン、とガラスがぶつかる音。
ゆっくりと注ぐ。
氷が、ピシッと音を立てる。
ゆらゆらと舞って、時折コリンと響いた。

ごくごくと飲む。
冷たさが、のどを通って、奥まで届いた。
……目の前が、すっとした。

「ふぅ」

飲み終えて、グラスを戻す。
氷が、底で、くるっとまわった。
二度。
手を離したときの、余韻みたいに。

窓を開ける。
少し重たい、湿った空気。

目を閉じて、深呼吸。
──今日は、歩こう。
目だけで時計を見る。まだ8時。
この時間なら────まだ歩ける。

足元が温い。
朝なのに、もう、少し暑い。

(誰か太陽に、熱い何か混ぜた?)

風は生ぬるいけど、気持ちよかった。
風じゃなくて、決めたことだから。

曲がり角を左に。
帽子の中が熱い。
ひたいに汗。
首から下げたタオルで拭った。
……部活みたい、って思った。

右手に小学校。
誰もいない。
校舎の影が、濃い。
空は、夏の色。
白い雲。
動かない。

草刈り機の音が途切れた。
風が吹いてきて、塩素の匂いがふわっと広がる。
プールの水が、舌の先に触れた気がした。

もう誰も入らないはずの学校の、鍵のかかった柵の向こうで、
キラキラした夏の水だけが、まだそこにあった。

風が吹くたび、誰もいないプールから、塩素の匂いだけが届いた。
その匂いを、思いきり吸い込んだ。

あの夏。
ゴーグルの跡をつけて、笑っていた誰かの声。
顔をつけるのが怖くて、ビート板にしがみついてた。

木の葉の影が、足元に重なる。
時間が止まっているように見えた。

もう一度、深く息を吸って、帰る。

途中、コンビニに寄る。
ふわっと冷たい風。
毛穴が、一斉に閉じた気がした。

壁には、夏祭りのポスター。
昨日の、あの声が浮かぶ。
電話越しの柔らかい響き。

あの声が本当なんだろな
そんな事を考えた

家に帰って、シャワーを浴びる。

スマホを見る。
グループライン。
夏祭りの話。

にぎやかなやり取り。
スタッフたちの笑い声が聞こえた気がした。

バスタオルで髪を拭く。
髪の隙間に入り込む風が欲しかった。

窓を開けて、
……扇風機に切り替える。

髪が揺れた。
自然と、息が深くなった。

冷茶を注ぐ。
氷は入れなかった。

ごくごくと飲む。
全部を、身体の内側に沈めるように。

目を閉じる。
しばらくして、スマホに手を伸ばす。

着信履歴。
──中原さんの番号。
指先が、少しだけ止まった。

そのまま、伏せる。

扇風機の風に、猫の毛が揺れていた。
少しだけ、やわらかく。

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