【麻衣編】第二七話 風が通り抜けた午後

《誰かに任せるのが、こんなに怖くて、嬉しいなんて思わなかった。

静かな午後。風が抜けていくように、麻衣は少しずつ“自分の居場所”を整えていく。
柚葉に託す勇気。和菓子屋で深く息をつけた冷茶の香り。

前回から続く、麻衣の“静かな選択”の物語。》


朝、ふと思った。
柚にやらせてみよう、と。

サブスク型のデザイン相談サービス。
簡易的でもきちんとした「見せ方」を整える手伝い。

全部を一人で抱えるのは無理がある。
そんな、ニッチだけど、確実に人がいる場所。

思い立ったら動き出す。
見切り発車でも、止まらない。

SNSでビフォーアフターを見せられたら、何かが起きるかもしれない。
そう思った。

久しぶりにワクワクする。
体温が二度ぐらい上がった気分。

朝から柚葉と打ち合わせ。

「柚、なんか変わったね」

少し、はにかんだように笑った。
若さだけじゃない。勢いだけでもない。

最近、なんだか可愛らしさが増してきた。
服もすっきりして、髪も黒に戻したらしい。

自信が持てると、女は変わる。ほんとうに。
きっかけはよくわからない。
でもそれでいいと思った。

彼女には今後の方向性を知っておいてほしかった。
誰かと同じ方向を向いて進むこと。

その感覚は、少しだけまだ慣れてない。
“せーの”で、縛ってある右足と左足を同時に出す。
あの、ちょっとだけ難しい感じ。

独立してからは、ずっと一人で歩いてきた。
頼らなかった。頼りたくなった。それを自立と呼んでいた。

「頼ってほしい」と言われたこともあった。
でも、その言葉の奥に何かが透けて見えたから、私はその人を頼らなかった。

結局その人は、私を罵ってどこかへ行ってしまった。

だからなのか、柚葉には少し任せてみようと思った。

今なら、失敗しても取り戻せる。
私にも、会社にも、その体力がある。

若いうちの失敗は、そんなに痛くない。

SNSでバズった。
柚が頑張った結果。

「柚がバズらせた」と言っていい。
誰かの手柄を奪わない。会社を立ち上げた時、自分にそう決めた。

「これはあなたに任せるわ。フォローはするから、好きにやっていいわよ」

柚葉が、少し複雑な顔をした。もっと喜ぶかと思っていた。

「社長、私、ちょっと怖いです……できるかな……」

柚葉でも、そんなふうに思うのね。
可笑しくなって笑ってしまった。

「笑わないでくださいよぉ」
柚葉が困った顔をする。

「ねえ、柚。失敗してちょうだい」

わざと軽く言うと、柚がわからなさそうな顔をする。
それがまた可笑しくて、また笑った。

それにつられたのか「うへへへ」みたいな変な笑い方で、柚も笑った。

「はい、解散!」

答えは言わなかった。意地悪じゃないのよ?
あの子なら、自分でたどり着ける。
その過程を邪魔しないことが、大事だと思った。

柚はそのままの場所で、小さなノートに何かを書きはじめた。

ほらね、この子は大丈夫。

今日は忙しくない。
それぞれが自分のことに向き合っている。

静かな空気のなか、時間がじっくり流れていく。

私も、私のことをやる。
カタカタと静かにキーボードが鳴る。
誰かが紙をめくる音。

気づけば昼を過ぎていた。

「みんな、なにか食べる?」

「ピザー!」

スタッフのひとりが声をあげる。
デリバリーの注文は任せた。
あれがいい、これがいいと、楽しそうな声が響く。

柚は別室で、まだノートに向かっていた。

ブラインドの隙間から窓を開ける。
風がバタバタと音を立てて部屋に入る。

柚葉の髪が、ふわりと揺れた。
綺麗。そう思った。

「お昼にしましょ?」

彼女の顔に、なにかを掴みかけたけれど、まだ掴みきれないような色が浮かんでいた。

午後、柚葉はPCに向かっていた。
何かを形にしている。

私は見なかった。
言葉を挟めば、私の声はノイズになる。

どこまでも広がる思考。
邪魔されたくない。
それは、私も同じだから。

やがて、柚葉がノートを手に、他の子と話し始めた。

ゆっくりと、でも確かにチームが動き出す。

チームワークというより、仲間の助け合い。

夕方。五時。

「今日はおしまい」

私が切り上げなければ、あの子たちは残ってしまう。

熱が入りすぎると、壊れてしまうこともある。
だから、帰らせる。

「しゃちょー……」

「だーめ。帰って、ちゃんと休みなさい」

帰っていく背中を見送った。

仕事が楽しいのは、いいこと。
でも、仕事のために生きてはだめ。
自分が消えてしまうから。

あの子たちには、それを味わわせたくなかった。

電気を消して、鍵をかける。
取っ手を二回、ガタガタとする。

帰ってもよかったけれど、今日は少し違う空気を吸いたかった。

和菓子屋さん、女将さんの顔が、ふと見たくなった。

夏の夕方。
明るくて、でも日が沈みかけていて、何かが始まりそうな空気があった。

背伸びして、はじめて夜に出かけたときの感じ。
少し怖くて、でも胸が高鳴った、あの頃の夜の気配。

そんなことを思いながら、和菓子屋へ向かった。

和菓子屋の前。
ドアが少し開いていて、薄い暖簾が揺れていた。

甘い香りが風に混じっていた。
お茶の匂いも少し混ざって、胸の奥が少しだけ弾んだ。

「こん、ちには」

こんばんはがいいのか、一瞬迷った。

「今日は走ってないのね?」

女将さんが柔らかく迎えてくれた。

ガラス越しに見える棚の上には、蛍光灯の白い明かりが和菓子を照らしていた。
ドアの隙間から差し込む夕陽の残りが、うっすら影を落としている。

「いつもいただくお茶って、売ってますか?」

「ええ、うちはお茶も扱っているんですよ」

女将は大きな木箱の蓋を開けて、中の袋からお茶を小分けにしてくれた。
秤に載せて、少しずつ足していく。

手際よく袋の口を締めて、袋に入れてくれた。

「ちょっと待っててくださいね」

奥から戻ると、お盆の上に小さめのグラスに入った、若い色のお茶があった。

「これからは、冷茶も美味しいんですよ」

水滴のついたグラスのお茶を、一口含む。

お茶の爽やかな香りが広がっていく。
冷たさが、喉を通っていく。
目を閉じた。
やっと、深く息ができた気がした。

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