【徹編】第二四話 甘い冒険

《知らないカフェで、知らない飲み物を頼んだ。
それだけのことが、今日はちょっとした冒険だった。

誰かの文章に、心が少しだけ動かされた気がして。
甘さの奥に、残っていたものの話。》


秋山と会ってから、もう三日か。
まだ、なんかショックが抜けない。

まあ、分かってたことではあるんだけどさ。
結婚もしてない。子どももいない。
仕事は……肩書きがあっても、誰にも説明できない。
自分にも、できない。

世間から見れば、それだけで「間違った人生」ってことになるんだろうな。

でも、いざ真正面から突きつけられると、やっぱり辛い。
誰かに言われるより、自分で気づく方が、ずっと効く。
しかも、逃げたくても逃げきれないんだ、自分のことだから。

そんなことを考えながら、駅とは反対の方向に足を向けた。
僕はいつも、歩いてばかりだ。
まあ、しょうがない。暇だから。
……いや、違うな。

暇なんじゃなくて、こうやって考えてる時間にだって、ちゃんと意味があるんだ。
そう、思いたい。せめて。

そんなふうに自分に言い聞かせながら、知らないカフェに入ってみた。
チェーン店。頼み方もよく分からない。
先に進んだレジで、どこに並べばいいのか一瞬迷った。

レジのお姉さんに聞きながら、ようやく注文したのが、キャラメル……とかいうやつ。

普段はブラック。
でも、なんか変わったことをしなきゃいけない気がしたんだよ。

出てきたカップを持ち上げて、一口。
……甘い。

ああ、こういう優しさが、今はつらい。
余裕のある人に「大丈夫?」って、覗き込まれたときみたいな。

苦さが飛び込んでこない。
これは、失敗だったかもしれない。

まあ、挑戦して失敗するのも……まあ、それも、僕か。

メニューにはたくさんの写真。
知らない言葉。
少し早口なお姉さんの笑顔。
サイズもLとかMとかじゃない。

お姉さんに「おすすめです」って言われて、じゃあそれで、って。

この前、後輩くんが社内報を置いていった。
その中の一ページを破って、ポケットに突っ込んであった。

女性グループの笑い声が、やけに近く感じる。
スマホの通知音も、誰のものか分からないまま、耳に飛び込んでくる。
音だけが、こちらに勝手に踏み込んでくるようで、居心地が悪い。

……でも、そのざわつきが、今の僕にはちょうどよかった。

丸いテーブルに一人。何もない席。
何も置かれていないことが、かえって落ち着かない。

奥の方には、壁際に向いた席もあった。
たぶん、そっちの方が静かだった。

でも、ここを選んだのは僕だ。
空いていたからでも、席が良さそうだったからでもない。
なんとなく向こうまで行くのが、少し面倒だった。

斜め横の人と、ふと目が合う。
軽く頭を下げて、視線を逸らす。
やっぱり、奥に行けばよかったかもな。

ポケットから破ったページを取り出して、広げて読む。
後輩くんの軽いエッセイが載ってる。
短い。でも、言葉が、迷っていない。
……こんなふうに、書けたことがあっただろうか。

ページを、丁寧に畳む。
角を合わせて。
でも、いいやと思って、後ろのポケットに突っ込む。

「ふーっ」

息をはく音が大きくて、頬杖をつくふりをして口元を隠した。
今の僕はどんな顔をしている。
……気になってしまった。

なんだよこれ、って思った。
あいつ、なんでこんな地方にいるんだよ。
もっと活躍しててもおかしくないのに。

嫉妬っていう感じ、じゃなかった。
それよりも、応援したくなる気持ちの方が強かった。
……まあ、僕に応援されても、別に嬉しくもなんともないだろうけど。

それでも「頑張れよ」って思った。
その言葉は、後輩くんに対してだったのか、自分にだったのか。
たぶん、どっちにもなんだろうな。
なんか僕も、頑張らなきゃなー、みたいなことをぼんやり思った。

それにしても、甘い。
甘いっていうか、これはもう……糖の暴力だな。

冒険には失敗がつきものだっていうけど、これは全部飲み干すにはちょっと苦行。

……でも、飲み干してみた。
甘さの向こうに、かすかに苦味が残っていた。

経験ってほどじゃないけど――
「いつもと違うことをしてみた」っていう事実は、ちゃんと残った。

もう一度、ページを広げる。
広げたままのテーブルを、しばらく見ていた。
目を閉じて、ゆっくりと息を吸う。
そして、そのページを見る。

特別なことが書いてあるわけじゃない。
でも、切り口がよくて、言葉がちゃんと流れてる。
“書く”ってことを、きちんとやってる。そんな文章。

僕なら、出だしはこうだろうな。
そこで読ませて、次が……

気がついたら、いろいろ考えていた。

僕は、張り合っているのか。

いろんなことを失敗して、間違って、今ここにいる。
書きたいっていう気持ちも、もしかしたら間違ってるのかもしれない。

でも、こんな文章を見せられたら……書きたくなるだろ。

またポケットにページをしまった。
今度は丁寧に、最後まで折りたたんで。

いつまでも、口の中に残る、この甘ったるいコーヒーの味。
たぶんこれは……ただの失敗じゃない。

今までとは違うことが、まだできる。
――そんな味だったのかもしれない。

なにか、甘ったるいものが、急に飲みたくなった。

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