
《知らないカフェで、知らない飲み物を頼んだ。
それだけのことが、今日はちょっとした冒険だった。
誰かの文章に、心が少しだけ動かされた気がして。
甘さの奥に、残っていたものの話。》
秋山と会ってから、もう三日か。
まだ、なんかショックが抜けない。
まあ、分かってたことではあるんだけどさ。
結婚もしてない。子どももいない。
仕事は……肩書きがあっても、誰にも説明できない。
自分にも、できない。
世間から見れば、それだけで「間違った人生」ってことになるんだろうな。
でも、いざ真正面から突きつけられると、やっぱり辛い。
誰かに言われるより、自分で気づく方が、ずっと効く。
しかも、逃げたくても逃げきれないんだ、自分のことだから。
そんなことを考えながら、駅とは反対の方向に足を向けた。
僕はいつも、歩いてばかりだ。
まあ、しょうがない。暇だから。
……いや、違うな。
暇なんじゃなくて、こうやって考えてる時間にだって、ちゃんと意味があるんだ。
そう、思いたい。せめて。
そんなふうに自分に言い聞かせながら、知らないカフェに入ってみた。
チェーン店。頼み方もよく分からない。
先に進んだレジで、どこに並べばいいのか一瞬迷った。
レジのお姉さんに聞きながら、ようやく注文したのが、キャラメル……とかいうやつ。
普段はブラック。
でも、なんか変わったことをしなきゃいけない気がしたんだよ。
出てきたカップを持ち上げて、一口。
……甘い。
ああ、こういう優しさが、今はつらい。
余裕のある人に「大丈夫?」って、覗き込まれたときみたいな。
苦さが飛び込んでこない。
これは、失敗だったかもしれない。
まあ、挑戦して失敗するのも……まあ、それも、僕か。
メニューにはたくさんの写真。
知らない言葉。
少し早口なお姉さんの笑顔。
サイズもLとかMとかじゃない。
お姉さんに「おすすめです」って言われて、じゃあそれで、って。
この前、後輩くんが社内報を置いていった。
その中の一ページを破って、ポケットに突っ込んであった。
女性グループの笑い声が、やけに近く感じる。
スマホの通知音も、誰のものか分からないまま、耳に飛び込んでくる。
音だけが、こちらに勝手に踏み込んでくるようで、居心地が悪い。
……でも、そのざわつきが、今の僕にはちょうどよかった。
丸いテーブルに一人。何もない席。
何も置かれていないことが、かえって落ち着かない。
奥の方には、壁際に向いた席もあった。
たぶん、そっちの方が静かだった。
でも、ここを選んだのは僕だ。
空いていたからでも、席が良さそうだったからでもない。
なんとなく向こうまで行くのが、少し面倒だった。
斜め横の人と、ふと目が合う。
軽く頭を下げて、視線を逸らす。
やっぱり、奥に行けばよかったかもな。
ポケットから破ったページを取り出して、広げて読む。
後輩くんの軽いエッセイが載ってる。
短い。でも、言葉が、迷っていない。
……こんなふうに、書けたことがあっただろうか。
ページを、丁寧に畳む。
角を合わせて。
でも、いいやと思って、後ろのポケットに突っ込む。
「ふーっ」
息をはく音が大きくて、頬杖をつくふりをして口元を隠した。
今の僕はどんな顔をしている。
……気になってしまった。
なんだよこれ、って思った。
あいつ、なんでこんな地方にいるんだよ。
もっと活躍しててもおかしくないのに。
嫉妬っていう感じ、じゃなかった。
それよりも、応援したくなる気持ちの方が強かった。
……まあ、僕に応援されても、別に嬉しくもなんともないだろうけど。
それでも「頑張れよ」って思った。
その言葉は、後輩くんに対してだったのか、自分にだったのか。
たぶん、どっちにもなんだろうな。
なんか僕も、頑張らなきゃなー、みたいなことをぼんやり思った。
それにしても、甘い。
甘いっていうか、これはもう……糖の暴力だな。
冒険には失敗がつきものだっていうけど、これは全部飲み干すにはちょっと苦行。
……でも、飲み干してみた。
甘さの向こうに、かすかに苦味が残っていた。
経験ってほどじゃないけど――
「いつもと違うことをしてみた」っていう事実は、ちゃんと残った。
もう一度、ページを広げる。
広げたままのテーブルを、しばらく見ていた。
目を閉じて、ゆっくりと息を吸う。
そして、そのページを見る。
特別なことが書いてあるわけじゃない。
でも、切り口がよくて、言葉がちゃんと流れてる。
“書く”ってことを、きちんとやってる。そんな文章。
僕なら、出だしはこうだろうな。
そこで読ませて、次が……
気がついたら、いろいろ考えていた。
僕は、張り合っているのか。
いろんなことを失敗して、間違って、今ここにいる。
書きたいっていう気持ちも、もしかしたら間違ってるのかもしれない。
でも、こんな文章を見せられたら……書きたくなるだろ。
またポケットにページをしまった。
今度は丁寧に、最後まで折りたたんで。
いつまでも、口の中に残る、この甘ったるいコーヒーの味。
たぶんこれは……ただの失敗じゃない。
今までとは違うことが、まだできる。
――そんな味だったのかもしれない。
なにか、甘ったるいものが、急に飲みたくなった。

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