
《特別なことは何もなかった。
でも、たぶん今日は少しだけ、違っていた。
自分でも理由はわからないけど。》
朝、起きて顔を洗う。
水の温度が、昨日よりもはっきり分かる!
なんて言えたらよかった。
でも、よくわからなかった。
僕は──何を期待していたんだろう。
鏡の中の自分が、少しだけ違って見えた気がした。
鏡を覗き込む。
目が合う。
前は見たくなかったけど、
今日は久しぶりに自分をちゃんと見れた。
おっさんになったね。
しょうがない。
これは当たり前のことなんだ。
子供の頃って、鏡を見たことあったかな。
ないかもしれない。
つい最近まで、なかったかもしれない。
見ていたんだろう。
でも目をそらすように、見ていた気がする。
よう!
意味もなく右手を上げて、鏡の中の自分に挨拶してみた。
鏡の中の僕も、手を上げていた。
それが少しおかしかった。
食卓に座って、カレンダーを見る。
赤い丸印のついた日付が、そこにあった。
ああ、そうだ。
あれから──企画書、放りっぱなしだったな。
後輩くんが全部手配済みのFAXをくれた。
なんでFAXなのかは、分からない。
このあいだ、うちに来たときにガチャガチャいじってたから、
遊びたくなったのかもしれない。
でも、あの後輩くんのことだ。
……なんか、意味はあるんだろうな。
僕には、わからないままで終わることが多い。
でも、それでいいと思ってる。
なんか、ちょっと可笑しいし。
おかげで僕は、事前に「よろしくお願いします」と電話したらいいだけ。
机の前に座る。
画面はついたまま。
キーボードを横目に、アイスを食べる。
スプーンを口に運びながら、思い出した。
夏のある日、部活をサボった。
理由は忘れた。
ただ、行きたくなかった。
エアコンの効いた部屋で、ひとりアイスを食べていた。
気持ちよかった。
風が気持ちよかっただけ。
それ以外は──
……空っぽだった。
なにも考えてなかった。
なにも、なかった。
自分だけ逃げてる。
自分から逃げてる。
何もしてないくせに、世界からズレてる感じ。
どうにもならなくて──
気づいたら、走っていた。
スニーカーを履いて、外に出た。
アスファルトが熱かった。
車の反射する太陽がまぶしくて、
それでも目を閉じれなかった。
手と足のリズムがズレる。
息を止めて、
心の中で叫ぶ。
あーーーー。
開けた口の奥に、熱い空気だけが流れ込んで、
声は、どこにも行けなかった。
握った拳の指の間に、汗がにじんでいた。
そのぬるさだけが、やけに残った。
──なんで部活のことなんて思い出したんだろう。
夏だから、かな。
最後の一口はもう、溶けかかっていた。
……カタカタ。
キーボードに指が当たる。
中指の爪が少し伸びたのか、
カチッとした音が、前よりも強く響く。
カタカタとした音の向こうに、
あのときの叫び声が、まだ残っている気がした。
画面の中、文字がゆっくりと増えていく。
何を書いているのか、自分でもよく分からない。
でも、止まっていない。
今、僕は自分から逃げているのかな。
まあ、考えてもしょうがない。わからないから。
ただ、書けないと思ってるのに、
なんとなく書けてるのが変な感じだ。
そろそろ、連絡を取らなきゃいけない。
もうすぐ夏祭りだ。
ポケットにあったスマホを取り出して、しばらく見つめた。
メールか、電話か。
番号をタップした。
コール音が続く。
その音が、心臓の音と重なって聞こえる。
でも、意外と心臓も静か。
──「あ、早川です」
その声が聞こえた瞬間、胸の奥が、ふっと緩んだ気がした。
気づいたら、もう話していた。
いつもなら、もっと躊躇していた気がする。
でも今日は、なんとなく指がそのまま動いた。
話してるあいだ、自分でも不思議なくらい静かだった。
声も、震えない。
通話を終えて、スマホを机に置いた。
いつものように、キーボードに向かう。
指が自然に動き出す。
カタカタ、カタ……
ふと、思った。
あれ?
そういえば──
電話してる間、手、震えなかったな。
リハーサルもしなかった。
普段なら、何度も頭の中で繰り返してた。
相手がこう言ったら、自分はこう言う。
そうやって、何かを間違えないようにしてた。
……でも今日は、それをしなかった。
また、キーボードに向かう。
カタカタ……カタカタ。
増えていく文字。
目が乾く。
よし。
なんで今、こんな言葉が出たんだろう。
別に、なにかができたわけでもないのに。
もう一度、言ってみた。
よし。
ただ、もう一度、聞いてみたかった。
時計を見たら、2時間たっていた。

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