【麻衣編】第二一話 まだ足りない、けれどある

《「足りない」という感覚は、ときに「ある」ことの証なのかもしれません。
手応えがあっても、何かが抜け落ちるような午後。
進んでいくために、振り返らないと決めた日。》


何かが、ひとつだけ足りない。
そう思ったのは、スマホを確認しているときだった。

一日スマホをオフにしていた分、SNSの連絡も、案件の話も、けっこう溜まっていた。

前かがみでスマホを持っている。
その手が、なんとなくしびれている。

あ、と気づいて力を抜く。
親指の付け根に、じんわりとしたしびれが残った。

画面が少し、明るすぎたかもしれない。
少し目の奥が痛む。

 

実家から戻って、次の日。
少しだけゆっくりしたかったけど、「定時には来てください」と連絡が入っていた。

 

自分の椅子に座る。
昨日一日、座らなかっただけ。

夏だからなのか、背もたれの蒸れる感じがなんか嫌だった。

 

別に、何かが起きたわけじゃない。
規則正しさを考えれば、ちょうどよかったのだろう。

柚葉に任せていた仕事は、問題なく進んでいた。

大きなプロジェクトも、一段落している。
バズの余波で、クライアントからの評価も上がったらしい。

「何件か電話も来ている」と。

一つひとつ、メモを確認する。
その中に、新しい案件の依頼もあった。

 

少し顔を下げて、目だけで周りを見渡す。

なぜかすぐそこにいるスタッフたちが、遠くに感じた。

 

「バズって、すごいのね」

大きめの独り言。
それが聞こえたのか、柚葉がこっちを見てニコニコしていた。

「ゆず、気持ち良いでしょう」
「はい!」

ゆずのニコニコが溢れすぎて、私までニコニコしてしまう。

笑えるなら大丈夫、なんとなくそう思った。

 

ゆずも、みんなも、頑張ったものね。
体全部から、嬉しさが溢れている。
なんだか、わかるわ。

私も、初めて大きな結果が出たとき、そんな気持ちだった。

 

世間では「調子に乗るな」と言われることもあるけれど、波は、いつか止まる。
だからこそ、今は進むとき。
調子に乗れるときに乗らなくて、どうするのよ。

 

手を握りすぎた。
親指の付け根に、爪が食い込んでいた。

背中を伸ばす。
少しだけ、首の後ろが固まっているのがわかる。

そのまま、ゆっくり深呼吸した。

 

そろそろ、自分のデザイン事務所の拡大を考え始めた。
拡大といっても、大きくするんじゃない。

この中で、“濃く”したい。

数人、新しく入ってほしい子の心当たりもある。
その中心に、柚葉がいる。

任せるなら、彼女――
でも、早すぎるかもしれない。
迷いもあった。

 

そのとき、クライアントから紹介された別の企業から、電話が入った。
かなり大きな案件。
金額も、規模も、それまでとは別次元。

“名実ともに認められた”ということ。
ようやく、一段上に上がった。

 

だけど、何かが胸の中から消えた気がした。
言葉にできない何か。

それは、もしかしたら──
自分が抱え続けていたら、傷んでしまうもの、なのかもしれない。

 

周りを見たら、広いところに私一人だけ……そんな気がした。

視線の先には、スタッフたちがちゃんといて、声も聞こえる。
でも、自分だけ、少し違う場所に立っている気がした。
同じ空間にいて、少しだけ、ずれている。

 

いろんなものが、自分の手から離れていく。
仕組みの中に流れ込んで、委ねていく。

“渡せる”というのは、ある種の喜びでもあるけど――
同時に、“もう全部は抱えられない”現実でもある。

 

手の重さが消えて、すっと何かが抜けていくような。
胸の奥に、うっすらとした冷たさが残る。

エアコンの風のせいかもしれないけど、たぶん、それだけじゃない。

 

「それも、ありよね」

なんとなく和菓子の味を思い出した。
濃いお茶。甘すぎない餡。確かな味。

 

あの店は、長くそこにいた。
変わらずに、けれど、変わりながら。

そんな風に続けることが、できるのかもしれない。

 

視線をあげる。
会議室の入り口で、柚葉が資料を確認していた。

壁に資料を押し付けて、細かく右手のボールペンが動いてる。

真剣な顔。
だけどどこか、楽しそうでもある。

不安とやる気の同居した、あの目。

あの目はいい。

 

ゆっくりと息を吸って、下唇を軽く噛んだ。
小さく、二回頷く。

 

任せるのは、自社の仕掛けか、新しいクライアントか――
でも、それはもう、考えることじゃない。

どちらも、「私の仕事」。
どちらを任せるかじゃなくて、誰と一緒に、進んでいくか。

私が、信じた。
育てようと、決めた。

その“気持ち”があるのなら、それでいい。

 

柚葉は、まだ足りない。
でも、それは“足りない”じゃない。
“ある”ということ。
まだまだ、これから伸びていく。

私も、まだまだ。

 

見せられるほどの背中じゃない。
それでも、振り返らないことにした。

 

「ミーティング、始めるわよ!」

声のハリが、気持ちよかった。
私自身が、一番進んでいる気がした。

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