【麻衣編】第二十話 通知を切った日

《いつ鳴るかわからない通知音に、気づかないうちに肩に力が入っていた。
だから、切った。スマホの設定を変えるだけなのに、それだけで少し、息がしやすくなった——。
季節の気配と、記憶の片隅に触れる、ある夏の日の話。》


朝の空気が、まとわりつくように重い。  

風はない。  

エアコンの音だけが、聞こえる。

湿気が抜けない。  

何も動かない。  

少し、息が浅くなる。

夏が、急に来た。  

そういう空気だった。

コップの底から、水滴がテーブルに落ちていく。  

手が濡れる。  

冷たさが気持ち良い。

冷たい麦茶が喉を通り過ぎる。  

けれど、何も変わらない。  

変わったのかもしれない

スマホの通知は、切った。  

指先の操作は、ほんの数秒で終わったのに、  

そのために、何日もかかった気がする。

切らなきゃ、気持ちが休めなかった。  

いつ鳴るかわからない通知音。  

聞こえていないのに、聞こえてる気がする。  

肩に力が入って、少しだけ息がしにくくなる。

バズった投稿。  

見知らぬ誰かの言葉。  

リツイート、引用、メディアからの連絡。  

自分が“外側に引っ張られる感覚”。

……ちょっと、怖かったのかな。  

画面の向こうから、知らない“何か”が飛んでくるような気がして。

だから、シャットアウトした。  

通知もSNSも、見ない。聞かない。考えない。  

——今日は、そう決めていた。

けれど、どこか遠くの部屋で、  

誰かが通知音を鳴らしているような気がしていた。

音がないはずなのに、耳が鳴っていた。  

スマホを裏返す。  

見えないように、画面を伏せた。  

“何もない”ということが、こんなにも落ち着かないとは思わなかった。

窓の外に、風はない。  

木も揺れない。  

景色が、止まって見える。

車に乗ろう。  

どこかへ行きたい。  

……ゆっくり、息がしたかった。

車で2時間。  

久しぶりに、実家へ。

流れていく景色。

車の窓を開けた。

タイヤのゴーという音。

少しだけ渦を巻くような風が、気持ち良い。

「おかーさん、ただいまー」

声に出した瞬間、音が壁に跳ね返って、すぐに消えた。  

笑いながら母が出てきて、「あら、珍しい」と言った。

目的は一応、部屋の片付け。  

……そう言いながら、何年放置したんだろう。

「片付けるから置いておいて」って言ったまま、  

時間だけが、過ぎていった。

部屋――だった場所。  

今は、物置きのようになった、かつての“自分”。

片付けよう。

そう思ったけど、懐かしいものばかりで、なかなか進まない。

高校のときに流行ってたブランドの小物。  

ロゴ入りのポーチ、ストラップ、香水、カチューシャ、リング。

引き出しの奥
お父さんからもらったiPodが出てきた。  

あのホイールのやつ。

前にバッテリーを交換してもらったことを、思い出す。

しばらく眺めたあと、  

そっと、コードを差し込んだ。

反応はない。  

沈黙のまま、数秒。

けれど、ほんの少し、待ってみる。

……ふ、と光が灯った。  

思ったよりも、ちゃんと明るい。

大きく息を吸って、目を閉じた。

それだけのことで、なぜか、胸の奥が少しだけゆるんだ。

ボタンを押す。  

ほんの一瞬の沈黙のあと、  

小さな音が漏れた。

宇多田ヒカルの「Automatic」。

……あのときの衝撃は、すごかった。  

みんな、足を開いて、低くなって歌ってた。

なんだか、世界が変わるような気がした。

しばらく、片付けを忘れて聴いてしまった。

気づけば、日も傾きかけていた。  

部屋も、だいたい片付いた。

“これからは、女性の自立の時代”――  

そんなタイトルの本が、まだ残っていた。

あのころ、何かを信じたくて読んでいた。

何も言わずに、ゴミ袋に入れた。  

今の私は、もう別の場所で、それを考えているから。

一通り、片付け終わった……の?

でも、また来ればいいよね。

その口実のために、少しだけ、終わらせなかった。

2階から1階へ、バタバタバタ。

「走るんじゃないのー、もう大人なんだから」

笑う母。

「ねー、ご飯行こー
何が食べたい? おとーさんは?  

 お肉はもう歳だから、やめておく?」

父は、ちらりとこちらを見てニヤリと笑う。  

「……肉だろ。肉の食べ放題、行くぞ」

みんなで笑った。

うん、今日はこれで、いい。

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