【徹編】第二十話 グラデーション

《「お疲れさま」って、もう言えなかった言葉だと思っていた。
でも今日、ふいにこぼれたその一言が、思いがけずあたたかくて。
少し前の場所、少しだけ変わった自分。
夏の匂いのなかで、ほんのり沁みた、ある夕方の記録。》


夕方。
暑い。
靴の中まで暑い。
通りの車の照り返しが眩しい。
目を細める。

「あー、暑い!」

小さな声で力なく叫んだ。
叫んだつもり……暑さには勝てない。

用事があって、久しぶりに昔勤めていた会社の近くまで来た。
オフィス街の外れにある、少し古びたビル。
あの会社は、今もそこにある。
たしか、前にもこの道を通って――そのときは、見つからないように路地に逃げた。

なぜだろう。
やましいことなんて、ないはずなのに。
自分から編集長を降りて、辞めたのも自分なのに。

それでも、やっぱり“外れた”という感覚は、まだ少しだけ残っている。
前よりはずっと軽くなったけど。

今日は逃げなかった。
逃げようともしなかった。
たぶん、なんとなく、もう一度見ておきたかったんだと思う。

ちょうど帰宅の時間だったのか、ビルの入口から三人ほど人が出てきた。
見覚えのある顔が混ざっている。

「お疲れさまです」

自然に、そう言っていた。
向こうも、軽く手を挙げて「おお、お疲れさまです」と返してくれた。

聞きましたよ、今度連載するんですって――
そんな話が始まったところで、後輩くんが現れた。

「あ、ちょうどよかった。先輩!」

なぜか嬉しそうな顔。子犬みたい。
見つけたって顔をしている。
それにつられて、こっちも笑ってしまう。

そのまま輪に加わって、少しだけ立ち話。
他愛もない話ばかりだったけど、どこか安心する。
言葉のやり取りに、懐かしいリズムがあった。
相変わらずちょっとズレて、僕も笑う。

一瞬だけ、昔に戻った気分。
あの頃はこんな風に楽しくはなかったけど。

笑い合いながら、なんとなく思った。

――僕がここにいても、いいのかもしれない。
なぜかは、わからない。
でも、そう思った。

いつの間にか、空は夕焼けに染まっていた。
雲が多かったけれど、西の端は綺麗なグラデーションになっていて、どこか絵みたいだった。

勤めていたとき、たぶんこんな空を気にしたことはなかった。

「じゃあ、また」

手を挙げて別れ、ゆっくりと街を歩く。
少し前の自分なら、あの言葉に「またなんて来ないよ」と思っていたかもしれない。

でも、今は違う。

商店街に差しかかる。
少し歩き疲れた足を止めて、お惣菜屋さんの前で立ち止まる。

醤油と砂糖の焦げた匂い。
焼けた鉄板の甘じょっぱいにおいが、腹の底を刺激する。

卵焼きかぁ。
これは絶対に美味しいやつ。
これは美味しい卵焼きにしか出せない匂い。
醤油が先にくるやつ。

お弁当コーナーを見て、卵焼きがメインになっているやつを選んだ。
白ごはんの横に、色の濃い卵焼きが鎮座している。

レジで会計を済ませ、ビニール袋をぶら下げながら歩き出す。
袋が軽く揺れて、気分も少しだけ浮いた。

街の灯りが、夜をまとい始めている。
少しだけ日が傾いた。
日影になるとふっと気が抜ける。

飲み屋の看板が明るく光りはじめ、学生たちの声が路地裏から響く。
そのざわめきのなかを、ゆっくりと歩く。
肩にかかった荷物の重さが、今はちょうどいい。

そして、誰にでもなく、小さな声で言う。

「お疲れさま」

たったそれだけの言葉が、
どこか、ちゃんとしたものに聞こえた。

あの時は言えなかった、この言葉。
「お疲れさま」って、こんなにあったかい言葉だとは思わなかった。

社会に出てからずっと、
お疲れさまは、ただの記号みたいなものだった。
交わしても、残らない。そう思っていた。

でも、今日わかった。
お疲れさまは、それを言い合える“仲間同士”の言葉なんだ。

その仲間って、
何かに属していなくても、ちゃんと存在できるんだ。

「お疲れさま」
もう一度、誰に言うわけでもなく、言ってみた。

通り沿いの小さな川から涼しい風が吹いた。
大きく息を吸い込めた。

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