
《家の前の十字路を、今日は右へ。
ただそれだけのことで、一日が少しだけ違って見える朝がある。
歩いて、汗をかいて、缶コーヒーを片手にベンチに座る。
そして、袋の中から漂う香りに、ちょっとだけ嬉しくなる。》
朝。
眠い……
少し体が硬い。
肩か、背中か、腰か、どこかが痛む。
ゆっくり起き上がった。
カーテンを開ける。
眩しい。
顔を背けた。
何となく、いつもの道とは違うほうへ足が向いた。
ただのおっさんの気まぐれ。
意味はない。
たまには違う方へ歩いてみたい――なんてこともあるんだよ。
そうじゃないけど、僕が目にするものはだいたい同じになってしまう。
それはちょっと、かわいそうじゃないか。
いつもの道じゃない。
ただそれだけのことなのに、少しだけ特別な一日の始まりのような気がした。
家の前の十字路を曲がる。
小学校のほうへ抜ける道ではなく、右。
そこから先は、ずっと、ゆるく、けれど確実に、上り坂が続いている。
太陽が眩しい。
少し目を細める。
朝なのに湿った空気がまとわりつく。
地面から靴の中に熱が伝わってくる。
はじめのうちは余裕だった。
だけど、途中から息が切れてきた。
ハァハァと肩で息をする。
足取りが鈍くなる。
蹴るつもりはなかった。
小石が軽く足に感覚を残して、チッチッチと小気味よく飛んでいった。
日頃の運動不足をちょっと後悔。
こんなに体力なくなってるの?
自分で呆れる。
毎日このくらいは歩いたほうがいいのかも。
立ち止まるたびに、後ろから来る人に追い越される。
学生さんたち、若い。
息一つ切れてない。
バタバタバタとスニーカーが音を立てて走ってる。
「……何やってんだろ、俺」
ぜーぜー言いながらも登り続けて、やっと坂を上りきったとき、不意に、声を出したくなった。
叫びたくなる、というより、雄叫びをあげたいという感覚だった。
胸の奥に詰まっていたものが、坂道の傾斜で押し上げられたような、そんな感じ。
でも実際に出たのは、間の抜けた「あー」みたいな声だった。
自分でも笑ってしまう。
たぶん、犬の散歩をしていたおじいさんに変な目で見られた。
坂の上には、小さなパン屋がある。
小さなお店だけど、ここのは美味しい。
学生時代からある店だけど、入るのはたぶん十年ぶりくらいだ。
ガラス戸の向こうには、焼きたてのパンが並んでいる。
全部欲しくなる。
まずはカレーパン。
本格的なスパイシーじゃなくて家庭のカレーって匂い。
子どもの頃から好き。
これは2個買う。
……おしゃれなパンがいろいろ並んでるけれど、よくわからない。
「すみません、これなんですか?」
「クロックムッシュですね」
うーん、ムッシュ。
名前からして紳士っぽい。
ホットサンドみたい。
僕がわかるのは、昔からあるやつ。
クリームパン、アンパン、ソーセージパン。
結局、カレーパン2個と……ムッシュ、あと名前はわからないけど薄いパリパリしたパンを買った。
忙しそうで、このパンの名前は聞けなかった。
紙袋を受け取りながら、
「こんな朝も、たまには悪くないかもな」
なんてことを考える。
朝からパン屋さんで、食べたことのないパンを買う。
少しおしゃれなライフスタイルな気がする。
僕がやるとそれほどおしゃれでもないけど、こんなこともやってみたかった。
そのまま坂を下りて、公園へ向かう途中、コンビニで缶コーヒーを買う。
紙袋の中で、シャラシャラと音を立てる袋が揺れる。
そこから漂ってくる匂いが、なんとも言えない。
スーツ姿の人たちが忙しそうに出勤していくのを横目に、公園のベンチへ。
なんか贅沢。
向こうから見たら無職のおっさん。
それもまた、贅沢。
自分でも意味が分からないけど。
袋からパンを取り出す。
朝の風にあたりながら食べる。
缶コーヒーはちょっとぬるかったけど、それも悪くなかった。
パンも、期待以上に美味しい。
これ!これだよ。
このカレーパン。
ずっとこの味だったのかぁ。
少し嬉しい。
声が聞こえた。
「おはようございます」
誰かが、僕に挨拶している。
少ししてから、それに気づいた。
隣の通路を、ゆっくりと歩いていくお年を召したご夫婦。
あわてて、立ち上がって、「おはようございます」と返す。
それだけのことなのに、胸のあたりが少し温かくなった。
なんか、いいなぁ。
あの歳でも、仲がよさそうで。
ゆっくり並んで歩いて、ちゃんと朝の挨拶をする。
僕もああなれるだろうか。
――なれたら、いいのに。
特別なことは何も起きていない。
誰とも話していない。
それでも、なんとなく――
「こういうのも、悪くないな」
口に出した瞬間、自分の声に驚く。
思っていたよりも、ちゃんと出た。
少しだけ低くて、静かな音。
自分がここにいる。
ただそれだけかもしれない。
でも、しっかりとした声で、
僕が、透明じゃなくなった気分。
そして、パンの袋をくしゃっと潰しながら、なんとなく思う。
こんなおっさんでも多少の変化はあって、
昨日、一昨日、もしかしたらその前も――
少しずつ、何かは変わっているのかもしれない。
そして明日も、明後日も、また何かが変わっていくんだろう。
それが自覚できるような大きいことばかりじゃなくて、
爪が伸びてる程度の、小さなことかもしれない。
でもね、
こんな朝は、気持ちがいいんだよ。
少し暑い風が袖口から入った

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