【徹編】第十九話 坂の上のパン屋

《家の前の十字路を、今日は右へ。
ただそれだけのことで、一日が少しだけ違って見える朝がある。
歩いて、汗をかいて、缶コーヒーを片手にベンチに座る。
そして、袋の中から漂う香りに、ちょっとだけ嬉しくなる。》

朝。

眠い……
少し体が硬い。
肩か、背中か、腰か、どこかが痛む。

ゆっくり起き上がった。

カーテンを開ける。
眩しい。
顔を背けた。


何となく、いつもの道とは違うほうへ足が向いた。
ただのおっさんの気まぐれ。
意味はない。

たまには違う方へ歩いてみたい――なんてこともあるんだよ。
そうじゃないけど、僕が目にするものはだいたい同じになってしまう。
それはちょっと、かわいそうじゃないか。

いつもの道じゃない。
ただそれだけのことなのに、少しだけ特別な一日の始まりのような気がした。


家の前の十字路を曲がる。
小学校のほうへ抜ける道ではなく、右。
そこから先は、ずっと、ゆるく、けれど確実に、上り坂が続いている。

太陽が眩しい。
少し目を細める。
朝なのに湿った空気がまとわりつく。
地面から靴の中に熱が伝わってくる。

はじめのうちは余裕だった。
だけど、途中から息が切れてきた。

ハァハァと肩で息をする。
足取りが鈍くなる。

蹴るつもりはなかった。
小石が軽く足に感覚を残して、チッチッチと小気味よく飛んでいった。


日頃の運動不足をちょっと後悔。
こんなに体力なくなってるの?
自分で呆れる。

毎日このくらいは歩いたほうがいいのかも。

立ち止まるたびに、後ろから来る人に追い越される。
学生さんたち、若い。
息一つ切れてない。

バタバタバタとスニーカーが音を立てて走ってる。

「……何やってんだろ、俺」

ぜーぜー言いながらも登り続けて、やっと坂を上りきったとき、不意に、声を出したくなった。

叫びたくなる、というより、雄叫びをあげたいという感覚だった。
胸の奥に詰まっていたものが、坂道の傾斜で押し上げられたような、そんな感じ。

でも実際に出たのは、間の抜けた「あー」みたいな声だった。
自分でも笑ってしまう。

たぶん、犬の散歩をしていたおじいさんに変な目で見られた。


坂の上には、小さなパン屋がある。
小さなお店だけど、ここのは美味しい。

学生時代からある店だけど、入るのはたぶん十年ぶりくらいだ。

ガラス戸の向こうには、焼きたてのパンが並んでいる。
全部欲しくなる。


まずはカレーパン。
本格的なスパイシーじゃなくて家庭のカレーって匂い。
子どもの頃から好き。

これは2個買う。

……おしゃれなパンがいろいろ並んでるけれど、よくわからない。

「すみません、これなんですか?」

「クロックムッシュですね」

うーん、ムッシュ。
名前からして紳士っぽい。
ホットサンドみたい。

僕がわかるのは、昔からあるやつ。
クリームパン、アンパン、ソーセージパン。

結局、カレーパン2個と……ムッシュ、あと名前はわからないけど薄いパリパリしたパンを買った。
忙しそうで、このパンの名前は聞けなかった。

紙袋を受け取りながら、
「こんな朝も、たまには悪くないかもな」
なんてことを考える。


朝からパン屋さんで、食べたことのないパンを買う。
少しおしゃれなライフスタイルな気がする。

僕がやるとそれほどおしゃれでもないけど、こんなこともやってみたかった。

そのまま坂を下りて、公園へ向かう途中、コンビニで缶コーヒーを買う。
紙袋の中で、シャラシャラと音を立てる袋が揺れる。
そこから漂ってくる匂いが、なんとも言えない。

スーツ姿の人たちが忙しそうに出勤していくのを横目に、公園のベンチへ。


なんか贅沢。

向こうから見たら無職のおっさん。
それもまた、贅沢。
自分でも意味が分からないけど。

袋からパンを取り出す。
朝の風にあたりながら食べる。

缶コーヒーはちょっとぬるかったけど、それも悪くなかった。
パンも、期待以上に美味しい。

これ!これだよ。
このカレーパン。
ずっとこの味だったのかぁ。
少し嬉しい。


声が聞こえた。

「おはようございます」

誰かが、僕に挨拶している。
少ししてから、それに気づいた。

隣の通路を、ゆっくりと歩いていくお年を召したご夫婦。

あわてて、立ち上がって、「おはようございます」と返す。
それだけのことなのに、胸のあたりが少し温かくなった。


なんか、いいなぁ。
あの歳でも、仲がよさそうで。
ゆっくり並んで歩いて、ちゃんと朝の挨拶をする。

僕もああなれるだろうか。
――なれたら、いいのに。


特別なことは何も起きていない。
誰とも話していない。
それでも、なんとなく――

「こういうのも、悪くないな」

口に出した瞬間、自分の声に驚く。
思っていたよりも、ちゃんと出た。
少しだけ低くて、静かな音。


自分がここにいる。
ただそれだけかもしれない。

でも、しっかりとした声で、
僕が、透明じゃなくなった気分。

そして、パンの袋をくしゃっと潰しながら、なんとなく思う。


こんなおっさんでも多少の変化はあって、
昨日、一昨日、もしかしたらその前も――
少しずつ、何かは変わっているのかもしれない。

そして明日も、明後日も、また何かが変わっていくんだろう。
それが自覚できるような大きいことばかりじゃなくて、
爪が伸びてる程度の、小さなことかもしれない。

でもね、
こんな朝は、気持ちがいいんだよ。

少し暑い風が袖口から入った

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