【徹編】第十六話 何もしたくない日、椅子だけがキーキーとうるさかった

《何もしたくなかった
椅子がうるさかった
それでも少しだけ歩こうと思った》


朝から何もしたくない。
そんな日もある。

大きく背伸びをしても、気分はすっきりしなくて、あくびが出る。
何かをしたら、何かが変わる──
そんなことはわかってる。

でも、動けない時だってあるんだよ。
理由はわからない。

たまにこんなふうに、テンションが下がる。

無意味に椅子の背もたれに寄りかかって、キーキーと音を鳴らす。
椅子って、結構丈夫だな。
そんなことを考えていた。

 

おっさんというのは、こういうものだ。
いや、おっさんになる前から、こんな感じだったかもしれない。

これは、自分でもちょっと持て余してる。
なんか嫌だけど──しょうがない。

こんな時に「俺は何をやっているんだ」って責めるのも、ちょっとつらいじゃないか。

心の休息。リハビリ。
そんな時間があっても、いいと思うんだ。
……それにしても便利な言葉だよね。

 

そんなことを考えていたら、昼になってしまった。


「こんにちは!」

妙に爽やかな感じの声が聞こえて、出てみたら後輩君だった。

 

外は、どんよりとした曇り空。
後輩くんの声は梅雨の湿った空気とちぐはぐで、少しだけ違和感があった。

──いつもの、あのハイテンションはどうしたんだ。
今日はずいぶんと爽やかで、社会人してるじゃないか。

 

肩から黒いバッグをかけて、両手には重そうな紙袋。
「何か重そう…だね」

「早く入れてくださいよぉ」

 

ごめんごめん。すっかり眺めてしまった。
紙袋の紐が手に食い込んでる。

事務所に通して、椅子を差し出す。
キャスターがうまく転がらなくて、ガタガタした感じが手に響く。

後輩くんが座った瞬間、キィと細い音が鳴った。

 

「で、今日のそれは何なの。重そうなんだけど」

「これですか?」
「これはなんと、じゃじゃーん、先輩の取材した記事が載っている号ですーー!」

さっきまでの爽やかさはどこいった?
いつもの調子に戻っていた。

 

「何冊いりますか? 配ったりするかなと思って。実績になりますよね」

後輩くん、ほんと気が利くんだよなぁ。
そんなことまで考えてるんだもんな。

「じゃあ、3冊ぐらいでいいかな」

「はい、わかりました。じゃあこれ」

 

渡された紙袋を覗き込むと、明らかに10冊は入っている。

「なんで一袋なのよ?」

「先輩、まさかこれを持ち帰れなんて言いませんよね?」

…まぁ、親に送ってもいいか。
「仕事してますよ」って、そういう形にもなるよね。

 

紙袋の底を一度持ち上げる。
ずしりとした感覚。
印刷の揃った角が、指先にきちんと触れる。

「なぁ凪、なんで何冊か聞いた?」 

「うーん、なんとなく」

「……そっか、なんとなくか」

ほんと、こいつは本気でいいヤツなんだよな。

でも、たまに──というか、ときどき、ちょっとだけ、わからない。

いや、わかるんだけど、わからないというか。

僕がおっさん、だからなのか……まぁ、そういうとこだよな。

さて、どこに配ろうか……。

あいつと、あいつはやめておこう。
またケチつけるだけだし。
作家崩れの仲間たちは面倒くさい。

恩師には送っといてもいいか。
そういえばこの間、入院したって言ってたな。
顔、出しておくか。

 

早速、出来上がった雑誌を開く。
あー、雑誌とはいえ、この匂いはいいよね。
新しい紙とインクの匂い。

 

パラパラとめくりたいけど、
新しい雑誌はパラパラとはめくれないんだよね。
紙がくっついてる感じで、なんか指が滑るんだ。
一枚一枚、丁寧にめくる。

──おぉ、あったあった。
麻衣さん、綺麗だなぁ。
この前、隣に座っていたなんて。

つい、写真の目を見てしまう……。

 

あれほど「書けない」と悩んでいたけれど、
いざ書いてみると案外、言葉は出てきた。

やっぱり言葉を届けるって、悪い気はしない。
整えられた枠の中かもしれないけれど、
そこにはちゃんと、僕の言葉があった。

 

取材の日のことを思い出す。
麻衣さんは、こちらが話し始める前にお茶に口をつけた。
こちらの緊張を読んでいたのかもしれない。

それで少し肩の力が抜けて、気がついたら話していた。

「大丈夫ですよ。うまく書いてくださると思います」

そう言われたひとことで、何かが決まったような気がした。

 

「なかなかいい記事になってますよ」

後輩くん、いつから僕の上司になったのよ。
でもまあ、こいつなりに精一杯いいことを言ってくれているんだろうな。

若い子ってよくわからないけど、悪い気はしない。

 

「あ、じゃあ今日はこれで」

もう一つの紙袋を重そうに抱えながら、後輩くんは事務所を出て行った。
ドアが閉まると、事務所の中は相変わらず静かだ。

 

ありがたいなぁ。
郵便で送って終わりにしても、誰も文句は言わないのに。
それでもわざわざ、こんなおっさんのところに顔を出してくれるんだよ。

 

手元に残った雑誌の袋をじっくりと覗きこむ。
じゅう……さんさつかぁ。
どこに送ろうか……。

 

自分の書いた文字が、インクの匂いと一緒にそこにある。
紙の重みは、確かに何かを残してくれている。

 

窓の外、雨はまだ降り出していない。
「この感じだと、降るかもしれないなぁ」

 

その前に、封筒を出しておこう。
とりあえず、親にだけでも送っておくか。

 

ポストは……あそこは撤去されたから、コンビニか。

 

……歩くか。

 

立ち上がったときに、また椅子がキィと鳴った。

 

「お前も頑張ってくれよ」

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