【麻衣編】第十三話 “いつも”から少し出たら

《風が、少しだけ気持ちよかった。
カフェで久しぶりに話した。
“いつも”を少しだけ踏み出しただけなのに、
見える景色が、ちょっとだけ変わっていた。》


シャツと肌のあいだに湿った空気が入り込む。
それが暑かったのか、暑くなかったのか。
首筋にエアコンの風が当たると、ひやっとした。

動くたびに、自分が自分じゃないような気がする。
こういう日は、気分がいつもより半歩、後ろを歩いてる。

今朝は軽めの打ち合わせがあった。
うちのスタッフは本当に優秀で助かる。
指示も全部、先回りしてくれてたり。

特にあの子。いつも私をいじってくる、あの子。
今では本当に頼もしいリーダーに育ってくれた。

安心して、少しだけ外に出られる。

「ちょっと出てくるわね!」

外の音が溢れている。
ヒューン。郵便屋さんが、音だけを残して走り去った。
昔みたいに「ブロロロ」じゃなくて、今は電気なのね。
風も吹いている。ちょっと湿ってるけど、なんか……気持ちいい。

歩いて、いつものカフェへ。
ちょっと間が空いちゃったけどね。
少しだけ早歩きになっていたかもしれない。

期待してないわけじゃない。
私をわかってくれるかもしれない。

でもね、好きとか、そんなんじゃないの。そう思う。
私はなんで、言い訳みたいなこと言ってるんだろう…

お店に近づくと、ちょっと帰りたくなる。
なんで? 分からない。
お店のドアが、少しだけ重い。

お店の前は午前中の陽ざしで、静かだけど、少しだけあたたかい。
通りの向こうから、パン屋さんの香りも流れてくる。
こんな時間に来たのは、いつぶりだろう?

カラーン。
中に入る。
中は思ったより静かで、空気がひんやりしている。

あの人の“いつもの席”には……いない。
あ、カウンター! なんで? いつもの席じゃないんだろ?
そんなことを考えたら、変なドキドキが消えた。

勇気を出して、肩を叩く。
私って、こんなこともできるんだぁ。
少し楽しくなった。

先日のお礼は丁寧に。
だって、自立してる、ううん、違う。
なんか嫌われたくないじゃない?
だから、丁寧に。

「横、いいですか」
またドキドキしてきた。
これは多分、いつもと違う冒険だから。

「マスター、一番安いやつ」
マスターが、少しだけ固まった。
でもすぐに、「一番安いブレンドですね」と微笑んでくれた。

中原さんも、固まってた。
でもね、これってね……
……まぁいいか。
私もちょっと、言ってから照れた。

なにこれ、ちょっと楽しいかも。
“いつも”から少し出たら、景色が違う。

マスターって、こんな感じの人だったんだ。

「ブレンドでございます」
湯気にのって、柔らかな香りがふわっと届く。

「いい香り」
自然と声に出していた。

出されたコーヒーを一口。
「にがい」

「ここのは苦いんですよ」
中原さんが、声をかけてくれた。

ちょっと嬉しいかも。
いいよね、こんな会話って。

後輩さんの話をしてくれた。
仲良さそう。
後輩さんは男の人? 女の人?
気になった。

私も、お気に入りのスタッフの話ができた。
中原さんは時々、少しだけ口元を緩めて、静かに頷いていた。

私のことも話したくなっていたけど、流れで原稿の話になった。
そう、理想の私が印刷されてる原稿。

呼吸がほんの少しだけ、浅くなった。
あそこにいる私は、本当の私なの?
またあのモヤモヤした気持ちが湧き上がってる。

「……あれが私なのか、分からないんです」
何で言ったのか、わからなかった。

慌てて席を立つ。
「ごちそうさま」

外へ出る。
私をわかって、なんて言えるわけないよね。

ほんと、ここのコーヒーは苦いわね。


まだ気持ちが落ち着かないまま、オフィスに戻ったら——

「社長、いいことありました?」
いつものスタッフの子が声をかけてきた。

なんで? コーヒー飲んできただけよ?

「なんかぁ(ニヤニヤ)社長ってかっこいいんですよ、私の憧れですから。
でも今日は社長って言うより、麻衣さん!って感じなんです」

この子は本当にいい子なの。
そして、空気も読めるから、仕事を任せても安心なの。
本当にね、読まなくていいことも読むのよ(苦笑い)

麻衣さん!って、それどんな顔よ(笑)
気になったから聞いた。

「乙女みたいな?」
あなたねぇ(笑)

「私、入金してきますね!」
上手く逃げられた。

笑われたような、励まされたような気持ちを抱えたまま、帰宅した。


部屋に帰ると、猫ちゃんが待っていてくれた。
とは言っても、ぬいぐるみの相棒。

私の中のイマジナリーフレンドみたいなもの。
たまに声が聞こえる気がする、仲良し。

ぬいぐるみを抱える。
柔らかくて、少しだけひんやりした、もこもこの感触。

「こんばんは、麻衣さんです」
猫ちゃんは……無視……だよね。

何か言ってよ、猫ちゃん

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