【徹編】第十三話 苦いコーヒーと、あなたの笑顔

《調子が今ひとつだなと思う日。
でも、そんな日が、決して「悪い日」になるとは限らない。
思ってもみなかった出来事が、そっと訪れることもあるから。》


特に理由はないけど、朝からずっと、うまく乗れていない。

いつもの椅子のはずなのに、
今日はなんだか硬く感じる。
……そう、ほんの少しだけ。

背中のあたりが、じんわり重い。
背もたれに触れている部分が、落ち着かない。

「あー、なんかだめだ」

充実感とか達成感とかは、ちょっと遠くて。
でも、「何もしてない」ってわけでもないんだよ。

ただやっていることが、何かを消化することみたいな。
そこには、何も生み出していなくて……。

「出かけてみるか」

少しだけ、外の空気に頼ってみたくなった。
椅子が鈍く、ギーとなった。

気分転換でもするか。
気分が落ち込んでいるわけでもないんだけど。

こんな日もある。


仕事や、モヤモヤした日々で来られなかったカフェ。

来たいけど……来たくなったのかもしれない。
でも、それだけじゃない気もした。

何かを期待してるような、
それを打ち消そうとしてるような――。

この考えも、自分をごまかそうとしてるんだろうな。
本当は、怖いんだ。
今の自分には、まだ、何もない。

よく分からないまま、気がつけば足が向いていた。


カウンターに座った。
いつもの席ではない。なんとなく、カウンター。

マスターに「ブレンド」と一言。
マスターが、少し微笑んだ気がした。

この店は、朝の9時から開いている。
まだ朝の雑踏には紛れられなかった。

多分、僕が歩いても、あの中から弾かれてしまいそうだから。
僕にはもう少しだけ、何かが、足りないんだ。

人の心なんて、簡単には変わらない。
でも、変わらないわけでもないんだ。

そんなことを考えながら、いつものコーヒーを飲む。


カラーン。

ドアが開いた。
気になるけど、あえて見ない。

コーヒーの表面が、ほんの少しだけ揺れた気がする。
映った顔が、その揺れに合わせて形を変える。

揺れているおっさんの顔なんて、絵にもならない。
天井には、ゆっくりとファンが回ってるのが映る。


トン。

肩を叩かれた。
右肩がぴくっと動いた。
……その手は、すぐに離れた。

「おはようございます」

……麻衣さん?!

麻衣さんから声をかけられた。
先日のお礼を丁寧に言い、それで終わりだろうと思った。

「横、いいですか?」

僕はゆっくり頷いた。
だって今、声を出したら絶対に「はひ!」みたいな間抜けな声になるから。

心臓がうるさい。
おっさんが急に心拍が上がるのは、良くないんだよ。
そんなことを考えて、落ち着こうとしてる自分がわかる。


「マスター、一番安いの」
麻衣さんがイタズラっぽく注文する。

マスターが一瞬、動きを止めた。

そして微笑みながら、「一番安いブレンドですね」と柔らかく返した。

「はい」
麻衣さんが、イタズラっぽく笑ってる。

可愛い。
うん、ほんとに可愛い。
綺麗で可愛い人なんて、おっさんの心臓に悪いんだよ。

時を止めたい。
ずっと見ていたい。
そんな子どもみたいなことを考えた。

こんな時、スマートな男なら気の利いたことも言えるんだろう。
何を話せばいいんだ。

そんな時――

「ブレンドでございます」

マスター、丁寧だな。
僕の時は「はいどうぞ」だったろ、と余計なことを考えて、少し落ち着く。


「にがい」

麻衣さんが笑いながら言った。
「ここのは苦いんですよ」

気がついたら、会話になっていた。

取材の話、スタッフの子の話、後輩の話、原稿の話――
麻衣さんは、ふとカップに視線を落とした。
一瞬だけ、そこにいないような雰囲気があった。

「あれが私なのか分からないんです」

そう言って、マスターに「ごちそうさま」と伝え、席を立った。


残された僕。
何があったのか、整理がつかないでいると、マスターが「はい、おかわり」

マスターと目が合ったら、少し笑ってた。
同世代、なんでもお見通し……だよな。

一人取り残された後、コーヒーをゆっくりと飲み切ってから帰ってきた。

歩きながら、いろいろ考えた。
何もわからない。
何も決まらない。
それでも、考えた。

誰かの自転車のライトが、すっと通り過ぎた。
気がついたら、街灯が道を照らしてる時間になっていた。

背中に残っていたのは、コーヒーの苦さと、カウンターの椅子の硬さだった。


ソファーに、一人。

くつろいでる――というよりは、
ただ、力なく座ってるだけ。

ソファーの革が、背中のシャツ越しにじわりと伝わる。
少しひんやりしていて、でも、動く気にはなれない。

昼間のことを、ずっと考えていた。

緊張したけど、楽しかった。
……うん、楽しかったと思う。

なんだか、学校の帰り道で、
偶然“好きな子”と帰り道が重なったみたいな気分だった。

偶然――って言っても、
ブロック塀に寄りかかりながら、空を見て、
少しだけ時間を調整して、重ならないかなーって、
“期待してた”あの頃の自分に似ている。

……僕は、いくつになっても変わってないみたいだ。


「あれが私なのか分からないんです」

あの言葉が、ずっと頭の中に残ってる。

“自分がわからない”ってこと。
“今の自分が自分なのか、分からない”ってこと。

――僕も、そうだな。

自分が何者なのか。
なぜここにいて、何をしているのか。
……今もよく分からない。

彼女が抱えているものと、
僕が抱えているものは、きっと違う。

だから、「分かるよ」なんて、軽くは言えない。
引き止めて、何か言えばよかったのかもしれないけど――
たぶん、何も言えなかっただろう。

僕は、今の苦しみがあっても“しょうがない”って思ってる。
それくらい、生き方が下手だったから。

でも――
彼女の苦しみが、少しでも軽くなってほしいと、
本気で、そう思ってしまう。

あのさみしそうな目。
あれは見続けたくない。

見返りなんて、別にいらない。
ただ、あの笑顔が――続いていたら、いいなって。

僕も、もうそういう年齢じゃないって、分かってる。
仕事にありつくのが精一杯で、何を言ってるんだか……
他人の幸せを願う資格があるのかどうかさえも怪しい。

でも……
あの笑顔を、少しでも守れる自分だったら――
そんなふうに、思ってしまうんだ。

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