【徹編】第六話 お疲れさまが言えない日

《会いたくないわけじゃない。
ただ、今の自分を説明する言葉が見つからなかったんだ》


夕方、たまたま用事があって、
かつて勤めていた会社のそばまで来た。

オフィス街の外れにある、少し古びたビル。
先日も取材の打ち合わせで来たばかり。
自分が通っていた場所。
通い慣れていた道。

今日は、肌に当たる風がちょっと寒い。

何気なく見ていたはずの景色が、
今は妙に鮮やかに目に映る。

すれ違った女性のヒールの音が、カツカツと響いていて、
これが社会の音なんだなと、不思議なことを思っていた。

ぼんやりビルの前を見ていたそのとき、
ドアが開いて、三人の社員らしき人たちが出てきた。

あ…知ってる顔。
きっともう、帰りなんだろう。

ネクタイを緩めて笑い合いながら、駅の方へ歩いていく。
声をかける理由もないし、僕はもう会社という場所を離れてしまっているから、
声をかけられるような関係でもなかった。

でも、どこかで自分の姿を見られたくなかった。
やましいことなんて、何もないのに。

気づけば、スッと路地裏に身を隠していた。
自分でも驚くほど、自然な動きだった。

ただ見られたくなかっただけじゃない。
たぶん、なにかを比べられたくなかったのかもしれない。

そのまま、狭い道を抜けて反対側の通りへ。
街灯が一つだけ点いていて、薄く光を落としていた。

…空は、雲の多い、くすんだ夕焼けだった。
澄んだ赤でもなく、劇的な茜色とも違う。
なんとも言えない、曖昧な赤。
その色が、なんとなく胸にざらっと引っかかった。

誰に見られても困ることなんて、ない。
あの会社に未練があるわけでも、恨みがあるわけでもない。

それでも、自分でも理由のわからない居心地の悪さを感じた。
逃げたくはなかったけど、逃げた。
体が勝手に動いていた。

いや、どうでもいい。
逃げたんだ。

「…俺は、何をやってるんだ」

無意識に、声が漏れていた。
自分の声なのに、どこか遠くから聞こえた気がした。

歩道の向こうで信号が変わった。
やけに響く歩行者信号の音。
誰かが自転車で通り過ぎていく。

僕は立ち止まったまま、しばらく動けなかった。

…そうか。

僕はもう、誰とも「お疲れさま」を言うこともなければ、
笑いあって帰り道を歩くこともないんだろうな。

それは、覚悟して離れた会社だった。
わかってた。
もう、あの席に戻ることはないって。

でも、、

今日みたいに、かつての同僚が何気ない夕方を過ごしている姿を見てしまうと、
強烈に思ってしまうんだ。

ああ、、
やっぱり僕は、社会から外れてしまったんだなって。

そう、僕には「またあした」って言い合える仲間がもう、いないんだよ。

そんなことを考えていた。
きっとさっきの三人も、「またね」「お疲れ」と言い合って別れたんだろうな…

そう思いながら、人混みの後ろ姿を、なんとなく目で追ってしまった。

寂しい、、
ううん、寂しいというより、疎外感…なのかもしれない。

そこにいたはずなのに、今はもういない。
自分だけが置いていかれたような、そんな感覚。

とにかく、、
そんな気持ちを抱えながら、
僕はしばらく、誰ともすれ違わない通りを、静かに歩いていた。

空は、雲が晴れてオレンジ色で、少し淡い感じだった。

そのグラデーションが、

今の僕には、残念なくらい綺麗だった。

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