
《がんばったはずなのに、どうして…》
夜のオフィスは静かだった。
時計を見れば、もう9時を回っている。
窓の外には、ちらほらとビルの灯り。
街はまだ完全には眠っていないけれど、このフロアだけは、ひと足先に深夜に片足を突っ込んでいた。
「今日は頑張れたな」
気づけば口にしていた。
誰に言ったのか、自分でもよくわからない。
クライアントからの「また次も頼むよ」の一言。
頭の中でずっとそれを繰り返していた。
あの言葉が、今日一日を報われたものにしてくれる。
たぶん、それだけで、この数週間の睡眠不足にも耐えた意味があった。
パソコンをシャットダウンして、机の上を片付ける。
書類をしまい、付箋をはがし、カップの中に残った冷めた紅茶を片付ける。
“明日できることは、明日やる”——そう割り切って、ようやく帰る支度を始める。
事務所を出たとき、ビルの廊下にひとりきりだった。
緑の非常口のランプが光っていた。
足音がカツンカツンと響いた。
玄関の鍵を開けて、薄暗い部屋に入る。
「ただいまー」
いつもの癖で、声が出た。
返事はもちろんなかった。
うん、そうよね。
誰もいない部屋。
テーブルの上の猫のぬいぐるみがこっちを見てる。
返事が返ってくることはないとわかっていても、つい言ってしまう。
靴を脱いで、コートを脱いで、カバンをソファに置く。
照明のリモコンを押す。薄暗い明かり。
それだけで、少しだけ心が落ち着いた。
「……ご飯、もういいや」
食べる元気がないというより、作ることも、買いに出ることも面倒だった。
何か食べなきゃと思いながら、テレビの電源を入れてみる。
バラエティ番組が無理をして明るく笑っていた。
けれど、それはまるで別の世界の音のように感じた。
テンションの高い声、わざとらしい笑い、鮮やかすぎる照明。
「うるさい」
すぐに電源を切った。
部屋が静かに戻る。
カバンの中を探って、シリアルバーを取り出す。
包装を破り、そのまま齧る。
パサパサとした甘さが口の中に広がる。
スマホを開いて、SNSのアプリを起動する。
通知がいくつか溜まっていた。
返信しなきゃ、と思いつつ、なかなか手が動かない。
昼間、高校時代の友達からLINEが届いていた。
「SNS始めたから見てねー!」
笑顔のスタンプと一緒に送られてきたリンクを、ようやく開く。
タイムラインに並んでいたのは、在り来りな写真だった。
カフェのスイーツ、週末の家族写真、公園のベンチ、小さな子どもの後ろ姿。
“こういうの、よく見るよね”と思いながらも、画面をスクロールする指先は早送りのそれだった。
流れていく画面。
開いたからには何かリアクションしなければと思ってしまう。
そうしないと人は色々面倒くさい。それも知っている。
「良かったよー!」
そうコメントを残すのが、今の自分にできる精一杯だった。
SNS、なんか楽しそうだったな。
少し雑にスマホを伏せる。
食べかけのシリアルバーを見つめたまま、ふうと息をつく。
がんばれた日だった。
今日の仕事は、本当に自信作だった。
クライアントの言葉も、ちゃんと嬉しかった。
なのに、夜になって、こうして一人きりの部屋で食べる甘いバーの味は、
どうしてこんなにも物足りないのだろう。
“こんな日があってもいい”と、いつもなら思える。
でも今夜は、ちょっとだけ、それがうまくできない気がした。
照明を少しだけ暗くした。ソファーの柔らかさが少し優しかった。
外の音も聞こえない静かな部屋。
……私には、何があるんだろう。

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