
《特別なことは、今日もきっと起きない。
……起こさないようにしているだけかもしれない。》
夕べは寝たのか寝ないのかよくわからない夜だった。
明け方の新聞配達のバイクの音でソファーに座って、そのままずっとそこにいた。
いつものカフェ。
……いや、“喫茶店”でいいだろ、別に。
でもまあ、時代なのか。カフェ、らしい。
この店は、チェーン店のような明るさも、流行のメニューもない。
木のドアには、カラーンと音のなる鈴。
押すたびにキィ、と鳴る油の切れた蝶番のドア。
今日もその音が、店内に静かに響いた。
一歩、また一歩。
奥の席。いつもの場所に座る。
こだわっているわけじゃない。ただ、なんとなく、毎回ここになっているだけだ。
ギシッと鳴る音がいつもより大きくて周りを見渡した。
取材、、、その言葉がずっと頭の中をぐるぐるしている。
別に現実逃避でここに来てるわけじゃない。
ただなんとなく足が向かった。
今さら現実から逃げる歳でもないしね。
「一番安いやつ」
マスターは、どこかあきれたような顔で目を細めた。
それきり、何も言わない。
このやり取りも、もう何度目だろう。
別に、ここのコーヒーが特別好きというわけでもない。
苦味が強いとか、酸味がどうとか、そんなのはどうでもいい。
とにかく、“ここに来ること”が自分にとっての習慣みたいになっていた。
何か目的があって来ているわけじゃない。
たぶん、今日も、何かが過ぎていくだけ
注文してから、コーヒーが出てくるまでのあいだ。
なんとなく店内を見回す。
壁際の本棚。小さな観葉植物。
年季の入った時計の針が、止まったまま。
窓から斜めに入ってくる光が、その時計をてらしている。
交差点を渡る人たちの姿が見える。
かすかに外で遊ぶ子供たちの声が聞こえてくる。
この店には、“いつも”がある。
決まりきった配置。変わらないBGM。常連の顔。
それだけだ。
それ以上は、何もない。
でも、だからこそいいのかもしれない。
何かを変える気力もない今の自分には、
何も変わらないこの空間が、逆にちょうどいい。
ただ、座っているだけで、
どこか社会と繋がっているような気がする。
誰かと話さなくても、ここに居るだけで、
「ちゃんと生きてる」と思える気がする。
認めたくはないけれど……
もしかしたら、少しだけ寂しいのか
それとも惰性で生きてるだけで、寂しくもないのかもしれない
仕事がない日、予定もない日。
自宅にいても、スマホを眺めるか、ブログも書く気が起きない。
何かをしているようで、何もしていない。
どこかに、僕だってまだやれるなんて思いもある。
この店に来るのは、その“何もしなさ”を、少しだけ覆い隠せるから、なのか
周りに人がいる分だけ、もしかしたら、さみしさを感じようとしているのか
笑い声も、マグカップの音も、誰かの咳払いさえ、
自分には関係のない音ぐらいにしか思えていない。
でも、来てしまう。
つい、足が向いてしまう。
「……僕は、何をやってるんだ」
声に出してみたけれど、それで何かが変わるわけでもない。
自嘲でも、嘆きでもない。
ただ、その時、ふと浮かんだ言葉を口にしただけ。
マスターがコーヒーを運んできた。
香りだけは、しっかりと主張している。
湯気が立ちのぼるそのカップ。
そのカップの温かさが、なんとなくうっとうしい。
一口、コーヒーを飲む。
「マスター、今日のコーヒー、苦いね」
マスターはまた、少しだけ目を細めた。
何も言わず、ただ、カウンターの向こうに戻っていった。
それでいい。
そういう店だ。
誰かと過ごしたいわけじゃない。
でも、一人きりでいたくもない。
そういう時に、この店がちょうどいい。
カップの中身が少し減ったころ、入り口のドアがまたキィ、と鳴った。
誰かが入ってきた。
視線は向けない。誰でもいい。知り合いでも、他人でも。
きっと、今日も、特別なことは何も起きない。
何も起きないからいい。

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